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安芸の宮島の特異な風習 |
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| 厳島は信仰上の理由から、神事のみならず住民の生活にも浸透した独特の風習を多くもっている。 時代とともに薄れたものや行われなくなったものも多いが、今も厳然と受け継がれているものもある。 中央政権から離れた島の習俗であるために文献として記録されることは少なかったが、戦国時代に陶氏・毛利氏の御師として精神面を支え、大内氏から「社奉行」に任じられた厳島神主家の棚守房顕が記した「棚守房顕覚書」 (天正8年(1580))や「芸藩通志」(文政8年(1825))には、生々しい記録が残っている。 | |
| ケガレの忌避 島全体が神域(御神体)とされたため、主に血や死といったケガレの忌避は顕著であった。 |
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| 「棚守房顕覚書」
•島に死人が出ると、即座に対岸の赤崎の地に渡して葬る(房顕覚書)。 赤崎は現在のJR宮島口駅のやや西にあり、遺族は喪が明けるまで島に戻ることができなかった。 「~の向こう」と言うと「あの世」を連想するため、「~の前」と言い換えていた。この風習は第二次世界大戦頃までは続い •島には墓地も墓も築いてはならない。現在でも1基もない。 •島の女性に出産が近づくと、対岸に渡って出産後、100日を経て島に戻るしきたりであった。「婦人、児を産まば、即時に、子母とも舟に乗せて、地の方に渡す。血忌、百日終わりて後、島に帰る。血の忌まれ甚だしき故なり。」(房顕覚書) 厳島神社の外宮を地御前神社(廿日市市地御前)というように、「地の方」とは対岸の本州を指す。 •女性は生理の時期には、町衆が設けた小屋に隔離されて過ごした。 「『あせ山』とて東町・西町の上の山にあり。各々茅屋数戸を設けたり。「あせ山」は血山なるべし。島内婦人月経の時、その間己が家を出て此処に避け居たりし。」(房顕覚書) 参考:「棚守房顕覚書」 48~52条(広島県史 古代資料編Ⅲ 1146~1147頁) |
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| 「芸藩通志」
•島に死人が出ると、即座に対岸の赤崎の地に渡して葬る(芸藩通志巻十七/房顕覚書51条)。 赤崎は現在のJR宮島口駅のやや西にあり、遺族は喪が明けるまで島に戻ることができなかった。「~の向こう」と言うと「あの世」を連想するため、「~の前」と言い換えていた。この風習は第二次世界大戦頃までは続いていた。島には墓地も墓も築いてはならない。現在でも1基もない。 •島の女性に出産が近づくと、対岸に渡って出産後、100日を経て島に戻るしきたりであった。 「婦人、児を産まば、即時に、子母とも舟に乗せて、地の方に渡す。血忌(ちいみ)、百日終わりて後、島に帰る。血の忌まれ甚だしき故なり。」(芸藩通志巻十七 安芸国厳島五 風俗 227頁) ※厳島神社の外宮を地御前神社(廿日市市地御前)というように、「地の方」とは対岸の本州を指す。 •女性は生理の時期には、町衆が設けた小屋に隔離されて過ごした。 「『あせ山』とて東町・西町の上の山にあり。各々茅屋数戸を設けたり。「あせ山」は血山なるべし。 島内婦人月経の時、その間己が家を出て此処に避け居たりし。」(芸藩通志巻十七) •五穀を作らず。 •猿鹿多く、人家に入て、食物をぬすめども、これを罰せず。 •盗賊を捕えれば、偏鬢偏眉(かたびんかたまゆ)を剃って、地方に渡す。 •島人、白木の箸を用いるを禁ず。正月四日の祭祀に、白箸を神に奉献する故とかや。されば五彩の楊枝、島の名産とす。 参考:「芸藩通志」巻17 安芸国厳島5 風俗 227頁
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| 商品流通の要 宮島
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| 広島城下町は遠浅で大船が着岸できる場所がなかったので「北前船」が運んでくる米穀は宮島で取引された。十八世紀以前の資料によれば宮島の米問屋は十六軒で一年間に三万石の米を取り扱っていたが、この半分以上は広島城下町の米商人に卸されたものと思われ宮島が城下町の外港として機能していた。
また宮島ではいっさいの食糧が生産されなかったので岩国の新湊、対岸の廿日市、草津そして城下町の河岸などから日常的に物資が搬入される必要があり宮島にはこれらの船が輻湊(ふくそう・・・方々から一か所に集まること)していた。 |
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