文明の発達と民衆の心の余裕の関係

ー菜種油ー


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菜種は一年草のアブラナ科の植物で、秋に種を蒔き春に花が咲き7月頃には
収穫し種を絞って油とする。菜種の原産は地中海で、菜種油は日本で最も古
い油脂の原料といわれており、鎌倉時代初期頃に精進料理の発達と共に食
用油として用いられた。
また、厳島神社など神社仏閣の灯明としても大量に使われていた。
室町期(16世紀)は、大きな変化のあった時代である。米の取れ高が飛躍的に
増加した。そのわけは、鉄の生産が増加し、鍬も大半が木製から鉄製に替わり
、深耕が容易になったため、鉄製の農機具による山野の開墾で耕作地が拡大
して、米の取れ高が大きく伸びたというわけである。
このころ、廿日市という町が市場町として形成されつつある時代でもあった。
こうして農民や町の民衆に精神的余裕ができ、心のより所を宗教・・・寺院など
に求めた。しかし、昼間から寺院に集まるほどの余裕はなく、それは夜の会合
(浄土宗や浄土真宗の教えを聴く講)であった。
明かりに使う油が、それまでの胡麻油から比較的油を絞るのがたやすい菜種
油に替わりつつあった時代で、夜の明かりが飛躍的に拡がった。
時代が下がって、江戸時代後期には江戸中期以降の都市を中心とする消費
が活発となり、農村で栽培される作物が消費地に送られるようになり、農民も
販売を直接の目的とし、米作り中心の農業から、かなり、商品作物にとって替
わった。こうして農民は、現金収入が得られ、油かすなど購入した肥料の使用
が可能となり、生産力が大幅に増大した。
江戸期の宮内村における替え作 (稲から畑作物を植える) 状況の資料をみると、

(畑) (替え作) (田)
文化七年(1810) 913畝(8%) 2106畝(17%) 9135畝(75%)
天保三年(1832) 913畝(8%) 4734畝(39%) 6507畝(53%)
安政四年(1857) 913畝(8%) 4814畝(40%) 6427畝(52%)

総耕作面積を100として、替え作地の増加とともに、田地が大幅に減少している
ことがよくわかる。
替え作には菜種の栽培に転換した農民も多かったと思われる。

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