江戸の食文化
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弐
四代目の八百善主人栗山善四郎は趣味が広く、当時一流の文人墨客と交流があり、その著書『料理通』には、 |
蜀山人(大田南畝)、亀田鵬斎が序文、谷文晁、葛飾北斎、酒井垉一などが挿絵を寄せている。 |
八百善はペリーへの饗応料理も担当したことでも名を残している。 |
八百善に関する最も有名らしい逸話を紹介。 「客が二、三人で極上の茶と、うまい香物のお茶漬けを注文したら、 |
お茶漬けは結構な味ではあったが、その勘定書はなんと1両2分であった」とか(現在の貨幣価値だと約15万円?)。 |
八百善は材料をよく吟味し、それらをうまく引き立てる為、手間暇をかけていたのであろう。 |
ぼったくりとも思える法外な値段の大きな理由として、主人曰く、京都のお茶にあう「水」を佐川急便もとえ早飛脚 |
を使って、玉川上水まで取りに行かせたのだと云う。 (『寛天見聞記』) |
そこで一句 「そんな店一度は行ってみたいもの」、 「茶漬けよりVISTAがいいと人は云い」 (hikog作)・・お粗末 |
八百善主人と交流のあった文人墨客(ぶんじんぼっかく)・・・詩文・書画など風流に親しむ人。 |
酒井抱一 さかい・ほういつ |
(1761-1828) 江戸後期の画家。姫路城主酒井忠以(ただざね)の弟。本名、忠因(ただなお)。狂歌・俳諧もたしなむ。 |
絵は特に光琳に傾倒し、遺墨を集めて「光琳百図」「尾形流略印譜」を刊行。代表作「夏秋草図屏風」 |
亀田鵬斎 かめだ・ぼうさい |
(1752-1826)宝暦二年江戸に生まれ、文政9年没 74歳 |
儒者。名は長興、字は穉龍。別号を鵬齋または善身堂と号した。長じて井上金峨に学び、20歳にして業を市中に |
開いた。文化の初めより下谷金杉に住し、同所に没した。詩文を善くし、書に巧、酒を嗜んで『金杉の酔先生』とも |
呼ばれていた。 旅と酒を愛し、書家として江戸の人々に親しまれた町儒者 |
大田南畝 おおた・なんぽ (別号 蜀山人 しょくさんじん) |
(1749.03.03-1823.04.06) |
江戸中期の戯作者.別号には蜀山人・四方赤良など.江戸生まれ. |
生家は御徒を勤める幕臣であったが,平賀源内との出会いを契機として,19歳で狂詩集『寝惚先生文集』を出版. |
以後,狂歌・洒落本・黄表紙などで活躍した. |
軽妙な笑いと機知によって広く歓迎され,天明期を制するが,寛政の改革に抵触して断筆.以降は役人としての |
仕事に專心して大坂・長崎に出役したが,その後も文名は衰えなかった. |
谷 文晁 たに・ぶんちょう |
(宝暦十三年(1763)九月九日-天保十一年(1841)十二月十四日、江戸下谷ニ長町の自宅で歿、享年七十八歳。) |
江戸時代後期の画家。父は田安家の家臣で漢詩人でもあった谷麓谷。画ははじめ狩野派の加藤文麗、長崎派 |
の渡辺玄対に学び、鈴木芙蓉から山水画を学ぶ。古画の模写と写生を基礎に南宗画・北宗画・洋風画などを加え |
た独自の画風を生み出した。また、松平定信に認められ、「集古十種」の編纂に携わり、その挿絵を描くなどして |
社会的な地位を得、江戸における文人画壇の重鎮となった。その門下からは渡辺崋山、立原杏所などのすぐれた |
画家を輩出した。 |
包一、鵬斎、文晃の三人は「下谷の三幅対」と云われ、生涯の遊び仲間であった。 |
大窪詩仏 おおくぼ・しぶつ |
(1767〜1837) 江戸時代後期の漢詩人。菊池五山とともに江戸詩壇で名声を博した。 |
葛飾北斎 かつしか・ほくさい |
(1760〜1849) 浮世絵師葛飾北斎は、当館に程近い本所割下水[ほんじょわりげすい](現在の墨田区亀沢)に |
生まれ、約70年に及ぶ画業のなかで、多彩な創作活動を展開した。伝統の枠組みにとらわれない独創的な作品 |
は、のちにヨーロッパの画家に影響を与えたことでも有名である。 |
北尾政美(まさよし) 後の鍬形恵斎 くわがた・けいさい |
(1764〜1824) 鍬形恵斎は号で、本名は赤羽紹真という。ほかに、北尾政美などと号す。絵師北尾重政に入門し、 |
挿し絵、錦絵などで活躍する。一介の浮世絵師から異例の抜擢で寛政6年(1794)美作津山藩の御用絵師となり、 |
その縁で狩野派の画風も学ぶ。葛飾北斎も手本にしたと云われる絵師 鍬形恵斎である。 |
-「料理通」の内容について-
(明治六年出生の祖父の所蔵本より公開)
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「右の一冊ハ会席精進物の部にして四季の 部分ハ前編にならひ唐料理普茶の仕様 までくハしくのせた里」 と巻末に次号三篇の予告が記されている。 |