廿日市関連年表


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時代 和暦 西暦 事          項
旧石器時代 3万年前 冠遺跡(かんむりいせき) (現 廿日市市吉和)
頓原遺跡(とんばらいせき) - 同上-
1万年前 速谷神社境内から旧石器末期から縄文時代のはじめごろとされる安山岩製の
槍先形石器「」が出土。
縄文時代 3500年前 地御前南町遺跡。出土品の石器に約100㌔離れている大分県国東半島の
姫島産の黒曜石(こくようせき)がある。
このころには、廿日市周辺でも人の暮らしが見えてくる。
弥生時代 紀元前3世紀 丸子山遺跡 (現 峰高二丁目)
宮内に弥生の人が住み、米作りをはじめた。
紀元後3世紀 高尾山遺跡 (極楽寺山中腹 丘陵尾根標高二六〇㍍-)
弥生時代後期の高地性集落。
内海交通の要衝を見張る防塞(ぼうさい)的な性格をもった遺跡であるという。
古墳時代 5世紀中頃 高砂古墳 (現 宮内)
この地域を支配していたであろう豪族の最も古い古墳であると推定されている。
村相互間の支配と統合により、国が成立してきた。
飛鳥時代 538 仏教伝来 (百済聖明王-くだらせいめいおう-仏像・経教,僧等を奉る。
推古1 593 佐伯鞍職(さえきのくらもと) が厳島神社を創建。
推古2 594 仏教興隆(こうりゅう)の詔(みことのり)が出され,各地で寺院建設始まる。
推古12 604 聖徳太子 憲法十七条制定。
推古36 628 唐が中国を統一。
舒明3 631 舒明天皇 有馬温泉へ。
舒明11 639 舒明天皇 伊予温泉へ。
大化1 645 大化の改新。
大化2 646 改新の詔(みことのり) 4ヶ条。
大宝1 701 大宝律令が完成する。
地方を国・郡・里(郷)にそれぞれ国司・郡司・里長を置く。
奈良時代 和銅3 710 平城京に遷都。
郷制 種箆郷。
官道 山陽道種箆(へら)駅家設置。
天平9 737 極楽寺・正覚院創建。
天平10 738 佐伯軍団が存在。
天平13 741 聖武天皇が国分寺・国文尼寺の建立の詔を出す。
天平勝宝1 749 奈良東大寺大仏完成。
平安時代 延暦13 794 平安京に遷都。
延暦24 805 最澄が天台宗を伝える。
大同1 806 空海が真言宗を伝える。
弘仁2 811 速谷神社と厳島神社は名神という社格に列せられる。
天長9 832 榎本蓮福佐売(えのもとむらじふくさめ)が節婦として賞される。 -福佐売神社-
延長5 927 延喜式完成。
延喜式神名帳に安芸国名神大社は速谷・厳島・多家神社の三社となる。
久安2 1146 平清盛が安芸守となる。
仁平2 1152 この頃から佐伯郡が佐東郡と佐西郡(ささいぐん)に分かれる。
永暦1 1160 平清盛がはじめて厳島神社に参詣する。
長寛2 1164 平清盛ら平家一門が平家納経を厳島神社に奉納する。
仁安2 1167 厳島神主佐伯景弘が高倉院御幸の際の勧賞(かんじょう)で従五位下となる。
仁安3 1168 神主佐伯景弘、厳島神社(本宮 37宇)・地御前神社(外宮 19宇)を造営する。
安元1 1175 法然が浄土宗を開く。
治承1 1177 清盛 千僧供養(せんそうくよう)を盛大に社殿・廻廊内で催し、舞楽が演じられた。
寿永1 1182 寿永元年少し前に、厳島神社神主 佐伯景弘 安芸守に任ぜられる。 
文治1 1185 平家 壇ノ浦の戦いで滅亡する。
文治3 1187 厳島神社神主 佐伯景弘が壇ノ浦で失われた三種の神器の一つ
天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の宝剣の捜索を朝廷から命じられる。
建久2 1191 栄西が臨済宗を開く。
鎌倉時代 建久3 1192 源頼朝が鎌倉幕府を開く。
建永2 1207 7月3日未明 厳島神社炎上 (1208~1215 12月19日 7年後に完成をみる)。
承久3 1221 承久の乱 (5月14日~7月13日)  朝廷と鎌倉幕府の戦い。
幕府が勝利し以後幕府権力が確立。
鎌倉幕府の御家人で周防の守護職であった藤原親実(ちかざね)が神主職になる。
この頃厳島神社造営のため職人たちが鎌倉から廿日市に移り住む。
武田信時 安芸国守護に補任。
貞応2 1223 12月2日夕方 再建8年後、またも厳島神社火災にみまわれる。
元仁1 1224 親鸞が浄土真宗を開く。
安貞1 1227 道元が曹洞宗を伝える。
天福1 1233 藤原親実 篠尾山に鎌倉荏柄天神(えがらてんじん)を勧請し天満宮にする。
嘉禎2 1236 10月13日 地御前神社(外宮)も再建。
仁治2 1241 7月17日 厳島神社(本宮)再建。 神主藤原親実 70歳を越える。
建長5 1253 日蓮が法華宗(日蓮宗)を開く。
正安2 1300 宮島大聖院の前身の水精寺は地御前の外宮の方にあったが、その座主坊が
厳島に造営され、それまで社人・供僧らは祭祀の時のみ島に渡り、平時は対
岸の廿日市・宮内・地御前に住んでいたが、それから島への移住が始まった。
鎌倉末期より南北朝時代にかけて社人・供僧らの地方(ぢかた)からの在島化
が厳島の町屋の発展を促進させた。
元亨4 1324 厳島社 社人修理検校(しゅうりけんぎょう) 佐伯親重の家屋敷が河井(可愛)
の地にあった。
元徳1 1329 安芸国守護職 武田信宗 銀山城を築城。
元弘3 1333 鎌倉幕府滅亡。
建武2 1335 芸国守護職 武田信武 足利尊氏方で参加。
建武3 1336 正月 厳島神主親顕(ちかあき) 南北朝の内乱 小幡合戦で討死。
5月1日 足利尊氏九州から東上所願成就を祈願し厳島社に造果保を寄進。
室町時代 暦応1 1338 足利尊氏 室町幕府を開く。
(建武3年(1336)足利尊氏の建武式目制定をもって創始された武家政権。)
暦応3 1340 この頃から厳島神主職が桜尾城に住み始める。
貞和4 1348 8月 足利尊氏、己斐村を造営料所として厳島社に寄進。
文和3 1354 12月 足利義詮(あしかが よしあきら) が尊氏から18年後小泉平氏に造果保
を勲功の賞として預け置く。このことが厳島社と以後百数十年にわたり、
紛争の火種となる。
応安4 1371 今川貞世(了峻)が海田を発って佐西の浦(ささいのうら)に到着。
翌9月20日厳島に参詣、夕方佐西に戻り、翌21日佐西を出て地御前社の
西の干潟から山路に入った、と九州探題として西下中のこの地の様子を
「道ゆきぶり」のなかで記している。(佐西の浦は廿日市にあたるとされている)。
康応1 1389 足利義満が厳島神社を参詣する。
明徳3 1392 足利義満 南北朝統一。
応永4 1397 武田、毛利、宍戸、平賀氏らの厳島社領の押領がはじまる。
応永13 1406 厳島社の祖 佐伯鞍職(さえきのくらもと)の子孫は地御前の野坂の地に居住
しており、現厳島宮司の野坂氏呼称のいわれなり。
嘉吉1 1441 銀山城の武田信賢は大和で一色直信を討ち幕府より賞功として神領ほを含む
地を宛がわれ、二月京都より佐西郡に侵入しょうとしたが厳島神主親春はこれ
を拒み、桜尾城に七百の社僧等で立て籠もり、武田勢は三千余騎で攻め、攻
防の末、五月武田勢は敗れ金山城に撤退。
享徳3 1454 廿日市の鋳物師(いもじ)が、周防国賀茂の鐘を作り、揚井の金屋の面々に商
権侵害について、当の三郎次郎詫状に「廿日市ひかしかりや」とあり、この頃
廿日の市が開かれ、町並みも形成されており、廿日市の地名の初見となる。
応仁1 1467 応仁の乱始まる。
長享1 1487 神主藤原教親・宗親父子が周防・龍文寺の金岡用兼禅師(きんこうようけんぜんじ)
を招き開山した神主家の菩提寺として洞雲寺(曹洞宗)を創建する。
明応6 1497 蓮如 大坂に石山本願寺を創建する。
永正1 1504 僧祐西 廿日市後小路に西念寺(浄土宗)を創建する。
永正5 1508 神主藤原興親、大内義興に従って上洛するも京にて嫡子なきまま病死。
このことで厳島神主職をめぐりを友田・小方両神領衆が東西に分かれて
争いが始まる。
  東方  桜尾城・・・・宍戸軍・友田興藤・武田氏
  西方  藤掛尾城・・・・新里軍・小方加賀守・大内氏 
永正11 1514 僧誓珍 廿日市に常念寺(真宗)を開く。
永正12 1515 僧日政 平良松尾山に常国寺(日蓮宗)を開く。
永正15 1518 大内義興 佐西郡を支配する (厳島神領の直接支配)
大永2 1522 平良松尾山の常国寺(日蓮宗) 廿日市後小路に移転。
大永3 1523 4月11日 友田興藤(ともだおきふじ)は大内氏に反旗を翻し、銀山城の武田氏
と結び桜尾城に入り厳島神主職を称し、大内氏と対峙する。
大永4 1524 友田興藤 大内氏と和睦し、神主職は安堵される。
大永7 1527 僧常念 高井の光禅寺を下平良川井に移り蓮教寺(浄土真宗)と称す。
天文7 1538 厳島大願寺の僧尊海(生国芸州平良庄)  一切経を求めて朝鮮に渡る。
天文8 1539 友田興藤 地御前神社の宝殿を再興する。
天文10 1541 4月5日 友田興藤 大内義隆に桜尾城を包囲され、火を放ち切腹。
承久三年(1221)藤原親実が鎌倉より神主職に任ぜられて以来三百二十年に
わたり神主職を世襲し、厳島神社神領、佐西郡を支配してきた藤原氏神主家
はついに滅亡した。
4月9日 毛利元就・陶隆房銀山城を攻め、大内本隊到着を見て開城降伏し、
鎌倉時代以来の安芸国守護の武田氏滅亡する。
天文15 1546 僧 鎮光坊円尊(ちんこうぼうえんそん) (渡辺与右衛門) 廿日市後小路に
光明寺(真宗) を創建する。
天文18 1549 フランシスコ・ザビエル キリスト教を伝える。
天文19 1550 陶隆房は、主君大内義隆を廃し、義尊擁立を企み、毛利元就に援助を請う。
慎重な毛利元就は隆房の命に従いながらも、せっせと自領を増やしながら、
その間、逆スパイや贋の手紙まで使って、陶家の有力武将・知略家である
江良房栄(えらふさひで) を殺させるのに成功する。
天文20 1551 8月20日 陶隆房は謀反に先立ち、厳島、桜尾城を接収。
9月1日 陶隆房は謀反を起こし、大寧寺(長門市)で主君大内義隆を討つ。
天文22 1553 10月 大内義隆の姉婿 津和野城の吉見正頼が陶氏打倒に立ち上がる。
天文23 1554 3月 陶隆房改め晴賢は吉見正頼の討伐に赴き、主力軍、大内氏支配地域
の佐西郡・・東西条の土豪が津和野に集結、これらの地域は、無防備状態
であった。
5月20日 虎視眈々と機を伺っていた毛利元就は、陶勢の津和野城攻撃中
自立を決意するに至り、大内義長、隆房改め陶晴賢と断絶した。すぐさま
挙兵当日、金山・己斐・草津・桜尾四城と厳島を占領するという快挙をあげた。
桂元澄(かつらもとずみ) 桜尾城主に就く。
6月5日 折敷畑に宮川甲斐守らは7千人で布陣し、明石口で毛利軍3千人
と一戦を交えるも毛利軍の奇襲により奮闘むなしくも敗れ去ってしまった。
    天文24    1555    草津城から地御前に前進した毛利軍は930日の夜、火立岩(ほたていわ) 
           

から厳島へ向けて舟を漕ぎ出し、包ケ浦に上を果たした。

            101日未明、包ケ浦から博奕尾尾を越え、搭岡に陣を敷く
            陶晴賢を急襲し、毛利方は勝利を収めた厳島合戦。  
           

※天文241023日(ユリウス暦1555117日)に弘治に改元された。

           

よって、101日はまだ天文24年にあたる。

            厳島合戦で毛利元就が陶晴賢を奇襲策で大勝し、桜尾城に凱旋、 
           

陶晴賢の首級(しゅきゅう)を佐方 洞雲寺に葬る。

僧了源 宮内の神福寺(真言宗) を改宗し専念寺(真宗)とする。
廿日市の漁船が厳島へ魚介類を毎日売りに通っていた。
弘治3 1557 4月 大内義長を滅ぼし、毛利元就は周防・防長の経略をなす。
永禄2 1559 ガスパル・ヴィレラ神父が京都へ行く途中、フランシスコ・ザヴィエルから洗礼を受け
た年老いたフェリペという宮島のキリシタンを訪問した。-芸備最初のキリシタン-
永禄4 1561 座 (特定の商品の生産・販売の独占権を持つ同業者の集団)の存在。塩、紙の座。
永禄5 1562 毛利元就 極楽寺本堂を再建する。
永禄9 1566 僧龍天上人 廿日市に潮音寺(浄土宗) を創建する。
元亀2 1571 6月14日 毛利元就死す。
元亀3 1572 毛利元就四男 穂田(毛利)元清(ほいだもときよ) 桜尾城主に就く。
天正1 1573 室町幕府滅亡する。
安土・桃山 天正7 1577 草津・久波・小方と並び廿日市が主要港であった。
時代 山陽道に面した宿駅の機能も持っていた。
天正10 1582 毛利氏 備中高松城の戦いで豊臣秀吉と和睦する。
豊臣秀吉 太閤検地始める。
天正13 1585 桜尾城主・毛利元清(毛利元就の四男)が時計が日本に渡来して四十年のち
オランダ製の時計を正覚院に寄進、この時計を頼りに太鼓を打ち、人々に「時」
を知らせる正覚院の時太鼓が廿日市の名物として始まる。
天正15 1587 豊臣秀吉 九州征伐の途路桜尾城に止宿する。
このとき廿日市の入口(現 中央公民館附近と推定)の拡張及び道路整備を行う。
天正16 1588 第一回毛利検地実施 文禄元年(1592)まで。
天正17 1589 毛利元清 広島築城工事の普請奉行に任命される。
慶長1 1596 第二回毛利検地実施 慶長五年(1600)まで。
慶長2 1597 僧安西 廿日市に正連寺(真宗)を創建する。
7月9日 毛利元清 桜尾城(広島との説あり)で卒(しゅっ)す。
毛利元清没後 毛利秀元最後の桜尾城主となる。
廿日市の地を離れ山口に居を構えていた秀元は、輝元の防長転封に伴い、のちに
支藩 長府藩祖となった。
慶長5 1600 関ヶ原の戦い
広島城主毛利輝元は徳川家康にその領地を36万石に大幅に減封され、
防長2ヶ国転封により、安芸広島城から萩へ移る。
福島正則広島に入る。
毛利氏が防長へ転封(領地の移し換え)になり、毛利氏支配の終焉に伴い、桜尾城
は、次第に荒廃していき、樹木が生い茂る小高い山に成り果てる。
原の円光寺(禅宗)僧祐正 真宗に改宗立善寺とする。
福島正則 領内総検地の慶長検地を実施。
慶長6 1601 桜尾城廃城により、福島検地で廿日市村町屋敷に区分され、在町(ざいまち)とされた。
農村にありながらも、城下町に似て一定の商業活動の許された村を「在町」という。
江戸時代 慶長8 1603 徳川家康 江戸に幕府を開く。
僧法徳 供僧寺(禅宗)を真宗に改宗し西蓮寺と称す。
慶長年間 宮内の光代寺(禅宗)廃寺となり観音堂のみ残す。
元和3 1617 僧空西 蓮教寺を川井から廿日市横小路(現在地)に移す。
元和5 1619 福島正則改易され、浅野長晟(あさのながあきら)紀州より広島に入る。
可部口・深川(現 安佐北区)、沼田(現 安佐南区)、玖波、廿日市・友田(現 佐伯)
6ヶ所に材木留め奉行を配置、竹・木一切を取り締まる。
元和6 1620 広島藩主 浅野氏 札数不変の原則のもと、運上銀を上納する事で鉄砲鑑札を交付。
寛永1 1624 地御前の僧明順 正行寺(天台宗)を真宗に改宗する。
寛永2 1625 僧玄正 地御前に西向寺(真宗)を創建する。
寛永5 1628 廿日市に口屋番所(御口屋)、十歩一所を設置。運上(税)としてその十分の一を
徴収し林産物の統制をする。
寛永5 1631 桜尾城址西方の神主家居館の空き地に石州津和野藩御船屋敷ができた。
寛永10 1633 幕府巡検使派遣のため藩内の街道・宿駅の整備をする。
西国街道は2間半、津和野街道は七尺、村をつなぐ道三尺と定められ、
一里塚は佐方川東寄りと宮内専念寺前に設置された。
津和野藩主亀井氏の参勤交代の交通路で、脇往還である津和野街道は、
廿日市-下平良村-宮内村の鑓出口(やりだしぐち)-(西国街道と分岐)-
峠-友田-河津原-津田-栗栖-中道-本郷-六日市-石州津和野に至る。
津田村に宿駅、宮内村五厘原(折敷畑のふもと、宮川甲斐守切腹岩の近く)
に一里塚松 (現在はいしふみ) があった。
寛永12 1635 江戸幕府 参勤交代の制を定める。
寛永13 1636 紀州塩津裏の漁民平右衛門 佐伯郡の漁民に鰯の懸け引き網漁法を伝播。
寛永14 1637 島原の乱起こる。
寛永15 1638 廣島藩直轄地の蔵入りの佐方・廿日市・地御前の地詰を実施する。
屋敷数は廿日市が350軒、地御前村が74軒。
廿日市下東町下側の魚屋の屋号の商人孫右衛門、長次郎が魚を売っていた。
寛永16 1639 串戸に十歩一所を設置。運上(税)を徴収し林産物の統制をする。
寛永16 1640 江戸幕府 宗門改め役を設置する。
寛文4 1664 佐西郡(ささいぐん)を佐伯郡、佐東郡を沼田郡というようになる。
寛文12 1672 河村瑞賢によって蝦夷地と大坂を直行する 西回り航路 が開拓された。
元禄10 1697 厳島神社社頭の海面はすでにこの頃は禁漁区とされていた。神に供える
贄(にえ)や祭祀の供物として昔は御膳調達の魚を此沖にて取っていた。
元禄12 1699 平良村で和紙の原料の楮(こうぞ)が栽培された。
元禄13 1700 平良村は上平良・下平良村に分割される。
元禄14 1701 上平良村騒動が起こる。
元禄15 1702 赤穂浪士 吉良邸に討ち入る。
宝永7 1710 屋敷数は廿日市が200軒、地御前村が201軒。
正徳5 1712 廣島藩郡制改革を実施する。
享保3 1718 廣島藩内で享保一揆発生する。
享保10 1725 廣島藩領内の山林改め (建山・留山・野山・腰林) をする。
享保17 1732 享保の大飢饉が発生する。
元文3 1738 廿日市の問屋商人が夜間に航行する船のために天神山に
「ミヨノ火」灯台として常夜灯を寄進。
延享4 1747 9月 台風により宮内村天王社が倒壊。
寛延2 1749 小方浦から二~三反帆の船の宮島、廿日市間の定期航路が開設されていた。
宝暦5 1755 焼失した地御前神社の再建のため明和三年(1766)までの12年間材木入札、
干鰯(ほしか)入札(頼母子)が興行された。
安永9 1780 原村2名、宮内村1名、地御前村1名の猟師が公認されていた。
天明3 1783 宮内村騒動が起こる。
天明の大飢饉発生。
7月6日に浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせる。浅間山に先立ち
アイスランドのラキ火山が噴火(ラカギガル割れ目噴火)。おびただしい
量の有毒な火山ガスが放出され、成層圏まで上昇した霧は地球の北半
分を覆い、地上に達する日射量を減少させ低温化・冷害を生起した。
影響は日本にも及び、東北地方で天明の大飢饉を引き起こした。全国で
数万人(推定で約2万人)が餓死した。またフランス革命の遠因ともなった。
寛政1 1789 廿日市天神で福引が行われた。
享和1 1801 廿日市蓮教寺徳沢大潤法師 「横超直道金剛錍」を著し、智洞が三業帰命
説を主張したのに対して批判し、「三業惑乱」(浄土真宗本願寺派に起こった
教義理解をめぐる紛争)で活躍する。
文化1 1804 廿日市の問屋商人により廿日市湊に埠頭・雁木等が造られ、千石船・
北前船も入津する港湾に整備された。
文化5 1808 廿日市津和野藩御船屋敷生まれの石見津和野藩士、天文学者、蝦夷地
航海測量の先駆者 堀田仁助が佐方八幡神社に一対の石燈籠を寄進。
文政8 1825 頼杏坪 (らい きょうへい) 藩命で「芸藩通志」を編纂する。
戸口変遷について
廿日市  665戸   2845人        佐方  159戸   738人
上平良  162     674        下平良  106     479
 宮内   445     1093        地御前  288    1210
  原   193      949          合計  2018戸   7988人
安芸の宮島   1028戸   3734人
(文政13) 1830 文政のお蔭参りは、60年周期の「おかげ年」で参加人数は430万人
天保1 (総人口3300万人) と全国に大流行。 柄杓(ひしゃく)を持って行き
伊勢時宮の外宮の北門に置いてくることが流行っていた。
天保4 1833 地御前村で村方騒動が起こる。
蓮教寺本堂修復のため頼母子講興行許可を願い出る。
天保10 1839 往来手形を所持せずこっそり家出をしてお参りをする「抜け参り」というもの
もあった。佐伯郡から493人(男258、女235人)。
また天保5年から抜け参りに出かけたまま帰ってこない者が118人
(男93、女25人) いた。
天保11 1840 アヘン戦争が起こる。
弘化1 1844 江戸城本丸炎上 廣島藩上納金を命ぜられる。
嘉永年間 代々広島藩に仕えた今中家の権六(大衛)は「御自分儀宿願二付 厳島社参弥山
登山も支度依之 往来日数二日御暇 之儀願之通被 仰出候間其旨可被 存候
以上  正月十三日」と厳島社参・弥山登山に付休暇許可状(年不詳)を出し、藩内
の行動に制約があったことが知れる。
嘉永5 1852 宮内村で村方騒動起こる。
嘉永6 1853 ペリー浦賀に来航する。
廣島藩は「異国船御防之御趣意」により3門の大砲の鋳造・試射をする。
嘉永7 1854 3月31日 日米和親条約。 神奈川条約とも言う。
安政4 1855 5月 宮内村専念寺の梵鐘が大砲鋳造の対象とされ献上。
安政5 1858 6月19日 日米修好通商条約締結。
安政6 1859 廣島藩 洋式銃の製造を始める。
文久1 1861 廿日市の山代政次・三輪弥助が牡蠣(かき)のひび立て養殖を始める。
文久2 1862 廣島藩 洋式小銃の製造を始める。
文久3 1863 攘夷(じようい・・・外国人を撃ち払って国内に入れないこと)決行を巡り政情不安。
廣島藩 甲州流から西洋砲陣式へ軍制の改革を行う。
6月 攘夷の海防掛を編成 (藩士のみでは領内全域の海防に不足のため補完する)。
10月 農兵組を結成 (海防掛を改編)。
町の繁栄策として廿日市本陣屋敷山田氏 (鋳物師山田氏の末裔にあたる) が
慶応三年(1867) まで富籤(とみくじ)を行う。親札は銀120貫目くらいで宮島の
富籤に影響が出たという。
元治1 1864 7月19日 禁門の変     
7月29日 廿日市は重要警衛地とされ厳しい戦時体制に置かれ、廿日市駅に関門
を設置、河合川の土手に砲台が築かれた。
11月12日 毛利家三家老の首級を廿日市に持参、14日国泰寺にて首実検。
11月18日の防長総攻撃は中止 (第一次長州戦争)。
12月 高杉晋作 騎兵隊を編成する。
慶応1 1865 廿日市潮音寺で最初の農兵隊、応変隊が結成される。
慶応2 1866 6月13日午後10時ごろ大竹村 青木堤に陣を構えた彦根軍から大砲を3発撃ち、
長州側も応砲 し第2次長州戦争が勃発した。
6月14日払暁(ふつぎょう・・・明け方) 戦闘再開、長州軍の攻撃に征長軍総崩れ
となり敗退。
6月から7月 両軍の戦闘幾たびかあれど勝敗に至らず。
7月20日 午後10時ごろ長州軍の廿日市通過阻止と藩兵の士気鼓舞のため、
廿日市の町屋の東西からに火を放つ。
9月2日 軍艦奉行勝海舟らと長州藩 広沢兵助らが厳島大願寺で休戦交渉の
会見をする。
慶応3 1867 前年9月19日に幕府から征長中止令が出されたが、広島藩領から長州軍が全面
撤退したのは翌年慶応3年2月で、その間広島藩の国境警備は継続されていた。
10月14日 (1867年11月9日) 大政奉還
12月9日 (1868年1月3日)、王政復古の大号令  明治新政府誕生
明治時代 慶応4 1868 戊辰戦争・・・維新政府軍と旧幕府側との間に16ヶ月余にわたって戦われた内戦。
(明治1) 1月3日から6日鳥羽・伏見の戦いに勝利した政府軍は、4月江戸城を接収、上野にこもる
彰義隊はじめ関東各地で旧幕府主戦派を討滅、奥羽越列藩同盟を結んで対抗す
る諸藩をも会津戦争を頂点に10月には帰順させた。
明治2 1869 翌年5月、最後の拠点箱館五稜郭を陥落させ、内戦は終結。
明治4 1871 7月 廃藩置県。  全国の藩を廃して府県を置いた。
北海道を除き3府302県(沖縄県の設置は79年)、年末までに3府72県となる。
武一騒動が起こる。
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