厳島合戦 |
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天文二十三年(1554)六月五日陶方の周防山代・佐西郡山里の土豪を動員し、廿日市西方の毛利方の
陣である桜尾城を眼下に望む折敷畑に陶方宮川甲斐守らは布陣したが、明石口で毛利軍と一戦を交えるも 毛利軍の奇襲により奮闘むなしくも敗れ去ってしまった。
両陣営の状況 宮川勢七千人、 死者七五〇余人、 毛利勢三千人、 死者七十余人。 |
1555年(弘治元年)九月晦日夜、風雲急を告げる暴風雨の中、阿品の火立岩を出航した毛利軍は、厳島包ヶ浦に上陸し、
博奕尾を越え、翌十月朔日(さくじつ・ついたちの意)塔の岡の陶軍の本陣の背後から奇襲を仕掛けた。 |
不意をつかれた晴賢勢 弘中隆包・三浦房清らは毛利軍の進撃を阻むも、総崩れとなり大元浦方面に退却。弘中は晴賢を逃がすため追撃する毛利勢と戦い大聖院方面で討ち死に。しかし、そこに見えた現実は帰還の船がなく、命運尽きたと自刃しようとする晴賢を想いとどまらせ、敗走するも、晴賢勢はついに小早川隆景勢に追いつかれた。陶晴賢の股肱(ここう・・・自分の手足のように信頼している忠義な家来。腹心。)
の家臣で厳島侵攻を強く押した人物三浦房清は、晴賢を逃がせ討ち死に。 |
この、厳島の戦いで毛利元就の奇襲戦に敗れた陶晴賢は「なにを惜しみなにを恨まんもとよりもこのありさまの定まれる身に」
の辞世の句を残し、自刃した。 |
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厳島合戦 その後 |
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安芸国の戦国大名毛利元就の大内氏領土周防国・長門国侵攻作戦の防長経略(ぼうちょうけいりゃく)が弘治元年(1555年)10月12日から弘治3年(1557年)4月3日まで行われた。 |
戦国時代末期、大内氏三家老の一人である杉治部大輔隆泰は鞍掛城主として周防国東部を固めていた。 |
厳島の戦いで陶晴賢に大勝利した毛利元就
は、その勢いで岩国に進出し、周防東部を治める大内家の武将 杉氏の鞍掛城(現岩国市玖珂町)や土豪の椙杜(すぎもり)の蓮華山城・小方に降伏するように書状を送りつけた。これ
に対し椙杜・小方両氏は、毛利方に味方したが、鞍掛城の杉隆泰は毛利元就の防長進出はどうしてもくい止める必要がある為、毛利には人質を送り一方では大内義長に忠 誠を
尽くす考えでいた。 |
1555年(弘治元年)11月10日〜14日(10月27日説もある)毛利が7千の軍勢をもって
周防国に攻め込んできた最初の合戦が鞍掛合戦であった。 杉方は2千6百の兵をもって鞍掛城と旧山陽道の南北に布陣し、毛利軍を迎え討つ。 |
毛利の軍勢が、椙杜・小方の在郷武士の手引きにて午前二時頃出陣し四時頃鞍掛へ到着し、午前五時〜七時頃にかけて一度におし寄せ杉隆泰陣の寝込みを襲撃した。 |
不意をつかれた鞍掛方は、城主 杉隆泰をはじめ、家老 柳井若狭守、宇野築後、児玉筑前、
有永備中、 侍大将 三浦助衛門など、鞍掛側の戦死者三百七十名が谷津ヶ原にて戦死。侍大将や足軽大将など多くの家臣が水無川に沿って南西の方面の二井寺
に逃れ最後迄戦を行ったが敢え無く敗れた。 |
高森城(現岩国市美和町)は、宝徳元年(1449)ごろ、大内氏家臣・岐志通明(きし・みちあき)によって築城された。 |
天文二十三年(1554)六月五日折敷畑に散った宮川甲斐守は岐志通明の孫である。 |
毛利方は、高森城に武将・坂新五左衛門を入れ、
山代地区の平定に当たった。 |
成君寺城(現岩国市本郷町)は、弘治2年(1556)毛利氏に攻められたとき、近郷の地侍が立て籠もり抵抗したという。 |
この戦いの結果大内氏は急速に弱体化し、かわって毛利氏がその旧領を併合していく。そして弘治3年(1557年)四月三日晴賢によって擁立されていた大内義長(大友宗麟の異母弟、大内義隆の養子となっていた)が自害し、大名としての大内氏は滅亡に至った。 |
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毛利氏の防長2州の移封 |
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安土桃山時代の1600年(慶長5年)9月15日西軍参加の関ヶ原合戦の結果毛利氏の防長2州の移封に伴い桜尾城(廿日市)は廃城となり約46年間続いた毛利氏の支配は終わった。また藤原氏以来約400年間当佐伯郡地方の支配の中心であった桜尾城の歴史は終わった。 |
毛利氏の政策は、国境の守りとして山代地方を重視し城を廃し本郷に代官所を置きこの地を支配した。また、この時代開かれたと思われる集落は
一様に士分(しぶん・・さむらいの身分。)
として認められた所もある。山間地域であるため山城特産の和紙の原料となる楮(こうぞ)・三椏(みつまた)の生産があり、耕作地の地力維持に必要な茅・草には事欠かず、農地の生産性は
比較的高かったと思われる。 |
ここに目をつけた
毛利藩では高い税率を課して、藩財政の潤沢を図っているが、結果として山代一揆を起こしている。 |
領地8カ国から防長2国に減封され112万石から30万石つまり4分の1に収入を減額され、しかもすでに徴収していた年貢については新領主たちから返還を迫られていた。毛利家最大の財政の危機である。 |
財政の立て直しとして次のような方策を実施した。 |
特産物 米・塩・紙・蝋(ろう)の増産 |
特産物 米・塩・紙・蝋(ろう)の増産 |
検地の徹底 |
茶・楮・梅など木一本一本にまで課税 |
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山代 十一庄屋物語 |
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検地は、慶長十二年(一六○七)から十五年(一六一○)にかけて行われ、七ツ三分(七十三l)という途方もない高率の重税であった。この法外な税率に対抗して立ち上がったのが、山代の十一人の庄屋達であった。 |
慶長十三年(一六○八)十月、嘆願を受けた代官所は討議の末、年貢の取立て高は要求どおり、四割まで下げることになった。 |
翌十四年、代官所から庄屋の代表の北野孫兵衛のもとに一通の文書が届いた。 |
昨年の一揆に関して折り入って申し渡したいことがあるので一同出頭せよという通告書であった。 |
その沙汰は、暴動を起こしたことは藩としても許し難い罪科であるとの結論に達した。 |
よって次の如く申し渡す |
十一名の者は死罪獄門申しつけるもの也 |
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慶長一揆 山代十一庄屋の頌徳碑と北野孫兵衛の首塚 |
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三月十九日、全員荒縄を打たれ引地峠へと登って行ったのである。午後二時、処刑は行われ、そのあと十一名の首は本郷まで運ばれ物河(ものこう・・・本郷川)の土手に設けられた梟首台(きょうしゅだい・・処刑した人の首を木にかけてさらす台)の上に並べられた。さらし首を不憫に思った勇気ある村人達が昼間は役人の目が怖いので夜半こっそりと北野孫兵衛の首を盗み、大きな自然石と首を共に成君寺へと登り、一目につかない成君寺の裏山 赤江の地に葬ったという。 |
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こういった事情で、ここ成君寺境内に、明治三十二年(一八九九)有志により建立された十一庄屋の頌徳碑がある。 |
おそらく、明治期に村長ほかの有志による史説の掘り起こしから頌徳碑の建立がなされていなければ、十一庄屋の |
物語は闇に葬られていたに違いない。また北野孫兵衛の首塚しかり。
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17世紀初め、慶長十四年(一六〇九)三月二十九日、毛利氏の7割3分の高い税に反対する農民一揆を指導し、本郷村引地峠で処刑された十一人の庄屋の供養碑がこの成君寺にあるのである。十一人は、今から三九九年前のこと民衆を無視した、毛利の藩財政維持のために犠牲になったのであるということを決して忘れてはならない。 |
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2008/3/12 記 |
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(参考文献: 山代の心、 山代風土記 中村良雄著) |
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