南北朝時代  1336-1392
鎌倉時代末 寛元4年(1246年)、後嵯峨天皇の退位後に天皇家は皇位継承を巡って大覚寺統(だいかじとう)と持明院統
(じみょういんとう)に分裂した。そこで幕府の仲介によって、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく(両統迭立)事が取り
決められていた。1333年(元弘3年/正慶2年)、大覚寺統の後醍醐天皇は全国の武士に討幕の綸旨(りんじ・・・天皇の意を
体して蔵人(くろうど)や側近が発行する奉書形式の文書。)を発した。これに応えた足利高氏(当時)や新田義貞らの働きで
鎌倉幕府は滅び(1333年)、建武の新政と呼ばれる後醍醐天皇による親政がはじまった。しかし長い反目抗争をしてきた公
家、武家が一体となって政治をすることは容易ではなく、政局の混乱が続き、恩賞の不公平問題などにより不平不満が多く、
武士階級の支持を得ることはできなかった。これを利用して足利尊氏が武家政権を樹立しようとして、一度京都に入ったが、
敗れ、尊氏らは九州へ下り、1336年(建武3年)多々良浜の戦いに勝利して勢力を立て直したのちに、持明院統の光厳上皇
の院宣(いんぜん・・・上皇または法皇の命により、院庁の役人の出す公文書) を掲げて東征する。
足利尊氏は後醍醐天皇との和解を図り、三種の神器を接収し持明院統の光明天皇を擁立した。その上で建武式目を制定し、
1336年、足利尊氏が後醍醐天皇の南朝に対して、北朝を擁立し京都 室町に室町幕府を開いた。
1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚(せんそ・・・天皇の位を受け継ぐこと)、後醍醐天皇の吉野
遷幸(せんこう・・・天皇が都を他の地に移すこと)により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に足利義満の斡
旋で、大覚寺統と持明院統の両統迭立と、全国の国衙領を大覚寺統の所有とすることを条件に、南朝の後亀山天皇が北朝
の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した(明徳の和談)。
この間、日本には南朝(大和国吉野行宮)北朝(山城国平安京)に二つの朝廷が存在し、両朝が合一するまでの期間を南
北朝と言い、それは室町時代の初期に当たる。南朝を正統とする論者は、「吉野朝時代」と称する。

南北朝時代の元号


参考Web:  「南北朝時代(日本)」  『フリー百貨事典 ウイキペディア(Wikipedia) 日本語版』
         取得 2008年5月5日(月)  最終更新 2008年3月26日(水)13:31。 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29


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