孝義の人 誓真さん
(こうぎのひと せいしんさん)


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以外や以外、誓真大徳の墓は広島市土橋 浄国寺にあり
歴史探訪を企画して以降、ふと思い出したのが、安芸の宮島で有名な杓子を発明した誓真さんの墓は何処にという
ことでした。
もともと島内は埋葬まかりならぬということで、あの毛利元就と陶春賢の日本三大奇襲戦のひとつである厳島合戦
の勝ち組の元就も、命果てた武士を対岸の大野(現在、廿日市市大野町)へ船で搬送させたと聞いたことがある。
誓真さんの偉業はその昔、井戸・道・雁木を作った偉いお坊さんだったと年寄りから聞いた記憶はある。そのとき
墓のことは一切触れられていなかった。
その後調べた結果、広島市内にあることが分かりました。2006/9/11市内に所用のあと現地を訪ねて撮影した画像
と合わせて、浄土新聞の関連記事をご紹介します。

2000/11  浄土新聞
*宮島の恩人“誓真大徳”没後200年の節目に偲ぶ会 広島・光明院
9月3日、広島県宮島町の光明院(能登原昌史住職)で宮島の恩人と慕われる浄土宗僧侶“誓真大徳”の「没後200年・遺徳を偲ぶ会」が、住民約300名を集めて開かれた。
誓真上人は18世紀末、耕地が少なく生活の厳しかった宮島に、今日、厳島細工として伝わる杓子をはじめとする木工技術を伝授。また、道路整備や水不足解消のために托鉢で浄財を集め10本の井戸を堀り、その後の宮島の人々に大きな恩恵を与えている。
偲ぶ会は、没後100年を記念して建立された「頒徳碑」で行われ、能登原師を導師に島内各宗派の僧侶が200年報恩法要(写真)を営んだ他、杓子供養や「誓真釣井」の水・・・・・(略)
誓真大徳頌徳碑 (光明院の近くにあり)
子供の頃は隠居場と言っていた。


         2008年4月29日の誓真大徳頌徳碑(せいしんだいとくしょうとくひ)
誓真大徳頌徳碑(正面) (裏面)
〈裏面碑文のあらまし〉
 仏教に帰依する者は金銀を施して、寺院を造立し、堂塔を修理し、それを功徳とする。仏の道を知らずして造寺修塔を知らない者には功徳はないのであろうか。
 そんなことはない。厳島の誓真大徳は、みんなに竹木で器具を造ることを教え、島の人たちが生活できるようにし、井戸を掘り町並みを整えて賑わいをもたらし、神社の霊験を高めた。この功徳は、造寺修塔に倍するものである。
 大徳は、姓を村上氏といい、伊予国務司城主村上頼冬を先祖とし、家族に理解を得られないまま、広島大工町で米穀商を営んでいた。ある夜、婦人がやっき来 て、衣服をもって米に代えてくれるように頼んだ。その衣類を確かめてみるとまだ温かさが残っている。その理由を聞くと、明朝炊く米がなく、子どもの眠って いるのを見計らって着ている衣類をはぎとって来たという。大徳は、世情がひどく冷酷になり、子どもや女性がこのように生きているのを哀れみ悼んで、衣服を 返し米を与えた。そしてその夜秘かに家を出て厳島に渡り、光明院の了単上人のもとで得度した。時に25歳であった。
 神泉寺に住んで修行を重ねていた。大徳は匠の心得があり創意工夫にとみ、彫刻が得意で、作った木魚は音の響きがよく、自ずと人々の知るところとなった。 また、厳島は霊験あらたかな神社があり、名勝地であったが、平地が狭く町の人たちの生活は成り立ちにくかった。そこで、大徳は人々に山に入って木を採り、 柄杓・箱・茶道具・酒器などを作ることを教えた。それらは、店に並ぶと男女を問わず来遊する人たちの目を眩まし、みんなその技巧の細やかなことを悦び、 争って買って帰り、進物にしていた。こうして厳島細工が広く知れわたるようになり、1100戸の人たちは機織りや耕作をしなくても生活が豊かになった。
 また島は飲料水に乏しかった。井戸を掘るには巨額の費用が必要であったが、各戸から喜捨を乞い、その経費に充てるべく、毎日托鉢して回った。町の人たち もその誠意に感心し、蓄えを出しあってその費用にした。井戸は10カ所完成し、今なお誓真釣井として称えられている。
 さらに厳島は急峻な崖に囲まれて町ができ、道路には高低があり歩きにくかった。そこで、来遊する人たちを快く迎えることはできないといって、崖を削り市 街地を整然とし、溝は石で覆った。道の上り下りは、海山の景色を見る人たちの眺望に奥行きを与え、また住んでいる人たちにはこの上なく便利になった。
 広島藩の藩主は、嘉んで褒美を与えられ、また「芸備孝義録」に記載するように命じられた。
 寛政12年8月6日亡くなられた。仏門には入られて35年、亡くなる前4日に広島の生家を訪ね、あと4日しか生きられないといって別れを告げられたが、 みんな信じなかった。しかし、その日になると忽然と亡くなりみんな驚いた。また神泉寺には箱が3個あり、その中には葬具が備えてあった。
 今年100年忌にあたり、町民が光明院に集まって追慕の法要を営んだが、みんな今日生活ができるのは、大徳の徳のおかげであると言い、後の世の人のために大徳の事業を記した碑を建て、誓真大徳頌徳碑とした。
明治31年歳次戊戌3月吉日 仙台 岡千仭撰文
昭和12年9月9日建之        内田晴耕書

碑文参考Web: 誓真さん  誓真大徳碑の概要 http://www.hint.or.jp/miyajima/seishin/hi1.html 
          取得 2008年7月2日(水)  最終更新日不詳


◆浄国寺  誓真大徳の墓◆
(2006/9/11撮影)
寺町より海よりに位置し、
100メートル道路から程近い
マンション・会社に囲まれた
街の喧騒の中の浄国寺
(広島市中区土橋町2-4)
右側の墓群中央部の
左側の墓群にあり
本殿の前、空き墓地の後、右から
2つ目が誓真大徳の墓
出身の地元に帰って眠る
誓真さんらしい
誠に質素な墓です。
廿日市の洞雲寺の
武人の墓とは・・・・
實譽至誠 誓真大徳
  寛政十二 庚申 八月六日
左側になにやら刻印あるも
読み取れず


 御室山 光明院墓地の誓真さんの墓 
誓真さんの出自は水軍の末裔
誓真(せいしん)さん ?〜寛政12年(?年〜1800年)
誓真さんの祖は、これまた以外なことに、伊予村上水軍の村上清長の子・頼冬(よりふゆ)である。
伊予村上仲宗-顕清-定口-清長-頼冬-頼久-頼康-頼貞-義弘=師清=義胤→能島村上氏・来島村上氏・
因島村上氏と三島村上水軍になる流れを汲む末裔(まつえい)なのである。

永暦(えいりゃく)1160年頃、讃岐の守護職であった村上讃岐守(さぬきのかみ)源清長は先ず塩飽(しあく)
島に渡り先祖仲宗のゆかりの地である伊予の大島に渡り、本庄村に築城して住み着いた。これが村上水軍
の起こりである。
弘治(こうじ)元年(1555)、毛利元就と陶晴賢の「あの厳島合戦」で、元就方に加担した村上水軍の祖に当る
というまか不思議な因縁がある。  
-誓真さんの出自等詳しくは こちら を参照-
宮島対岸 JR宮島口駅西方裏の山  御室山墓地(おむろやまぼち)
曹洞宗 延命寺 御室山墓地西斜面の僧 誓真大徳さんの墓


出自については、伊予の村上姓は知っていたが、三島村上水軍の祖・伊予村

上水軍の
村上頼冬(むらかみよりふゆ)の末裔であることが今回わかった。


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