安芸の厳島神社の棚守房顕(たなもりふさあき)
について

棚守房顕覚書



棚守房顕は、父玄顕の子として明応三年(1494)に生まれ、その子は元行である。
「芸藩通志」には、佐伯房顕、大永・天文の頃(1521〜1554)、棚守職にして社の事を奉行す、大内、毛利の時に當って勞ありしこと、影弘が績に継ぐといふべし、房顕手記一巻あり、今棚守家に蔵す、當時の事を雑記して、社の故事に預ること亦多し」とある。
明治十七年書写修補本には、「天正頃の人なり、本社創建の佐伯鞍職(さえきのくらもと)にして代々神職を相続し・・・大内、毛利等の信を得て社殿の結構旧に復し、ひさしく絶えたる祭式をおこさる。・・・・・若かりし時よりありけるくさくさのことどもを、おもひ出るまにまにしるしおかれたるは、即このふみなりけり、・・・・」とある

棚守房顕が名をなしているのは、「後を先へ書き置くなり」としながらも厳島神社の祭りごとの記録、社参者のこと、大内、毛利のこと、厳島合戦のこと、洪水被害の修復に苦慮していること、島中禁制のことなどを記した【房顕覚書】を残していることである。

厳島神の鎮座
「抑々厳島大明神ト申シ奉ルハ、吾朝推古天皇ノ御宇、端正五年戌申十二月十三日、此ノ島二来臨御座シテ悦ヒ玉フ、當社信心ノ仁等ハ子息繁昌シテ福喜栄花二ホコルナリ、」にはじまり、最後に

奥書
當島ノ往古ヨリノ儀ヲ覚エ次第、後ヲ先へ書キ置クナリ、向後ノ事ハ、弥々書記シ置クベシ、定メテシドロナルベシ、後見ノ御方々ノ、御分別二預カル可キモナリ、
    天正八年後三月上旬
                       棚守左近将監  房顕朝臣
                                  八十六歳  花押

で締めくくられている。1580年房顕86歳であった。
厳島合戦の1555年は61歳であり、1590年天正十八年一月廿日房顕九十六歳で逝去。


                          
ところで、厳島の掟として
一.子を産めば子母とも、船に乗せ地の方(大野)に渡し百日後に島に帰る。
一.死亡あれば即時に島のむかふ赤崎といふ地にわたして埋葬す。とある。

島内のお寺は法要・葬儀でお世話になるが、もちろん島内には焼き場もなく、ご遺体は舟にのせ、対岸の宮島口の焼き場にて荼毘に伏し、曹洞宗延命寺に葬る家が多い。
そうすると房顕を含め、鞍職ら佐伯(野坂)家の墓は延命寺にあるのか???
神職であるから神として祀られるのか。

宮島ゆかりの神主友田興藤、陶晴賢の墓は廿日市市の洞雲寺にある。杓子・雁木・井戸で有名な僧の誓眞さんの墓は広島市土橋の浄国寺にある。(その後の調査で、対岸宮島口JR宮島口駅裏の御室山の墓地に光明院の墓地があり、入口から二番目に誓眞さんの墓があることがわかりました。)

しかし、廿日市平良出身とされる大願寺僧侶尊海さんの「紙本墨書尊海渡海日記」
(しほんぼくしょそんかいとかいにっき)は知られていても、その生涯のことは明らかでない。
尊海上人さんについては、結論的には、お生まれから、大願寺の僧侶になるまでのいきさつ等については、大内氏とのやり取り等の大願寺文書はあれど゜、残念ながら一切、資料は残っていないようである。(この件大願寺に確認)。
広島藩の今中大学は50年におよぶ日記を書いており、書き物として残っていれば、後世役に立つのである。
棚守房顕覚書の史料としての価値は大であるといえる。

「校正」
前述の「ご遺体は舟にのせ、対岸の宮島口の焼き場にて荼毘に伏し、曹洞宗延命寺に葬る家が多い。そうすると房顕を含め、鞍職ら佐伯(野坂)家の墓は延命寺にあるのか???」の疑問の部分についてその後調査したところ、つぎのことが判明した。

「厳島信仰事典」 野坂元良編 2002年11月1日刊 戒光祥出版によると、「宮島を望む小高い丘・中山にある。江戸時代を始めとする墓石銘には棚守・祝師・神祇などの文字が確認できる。」とある。
墓に関して記述のある唯一の文献ではないか?  と思われる。

近日中に現地調査する予定。

1月9日「中山墓地」にて調査・・・・「厳島神社関係棚守・祝師・神祇の墓はいずこに」参照
2月22日宮島に行き、厳島神社社務所に確認すると、「祖霊社」が山翁神社の隣にあり、明治以降の神官を神として祀ってあるという。厳島創建者の佐伯鞍職、房顕などの人々の亡き後については、史料がないため不明ということであった。
従って、わからないから現在まで発表されていないということです。


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