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幕府巡見使


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 元和(げんな)元年十一月十九日、徳川家康は武家諸法度・一国一城制が遵守されているかを把握するために、三年に一度
諸国の監察を行う「国廻り派遣」の方針を打ち出した。
本格的な派遣再開は徳川家光が親政(皇帝や天皇が自ら政治を行うこと)を始めて1年後の寛永10年1月6日(1633年)
慶長日本図の校訂を理由として「国廻り派遣」を行うことを決め、2月8日に、小出吉親・市橋長政・溝口善勝・小出三
尹・桑山一直・分部光信の六名の譜代大名格を正使として各地に派遣したのが最初とされている。
副使として使番・小姓組あるいは書院番に属する旗本からそれぞれ1名ずつが付けられた彼らは地図の校訂を行うと
同時に当時既に構想されていた参勤交代実施時の大名行列のルートを確認する意図があったとされている。
巡見使を各地方に派遣して、各大名の領地に立入らせ、治世の様子を視察させその藩の領地、治政藩主の性行、城地、
物産、住民動向にいたるまで詳細に亘って検分を実施した。
このような事情から広島藩の西国街道の交通網が画期的に整備されることになったのは、寛永十年(1633)と翌十一年
幕府巡見使の巡察であった。続けて寛永十二年(1635)から制度化される「参勤交代」(三代将軍 徳川家光の時代)
を睨んだ施策でもあった。
巡見使一人の場合、各藩からの贈賄等によって事実を曲げて報告する恐れもあり、その歪曲 を正す目的として、幕府上級
旗本三人をもって一組として各地方に発遣させた。
巡見使は主席が二〜三、〇〇〇石、以下一、〇〇〇石位までの上級旗本から任命され、その巡見使には各々家老、取次役、
右筆(ゆうひつ・・・文書・記録をつかさどる武士の職名)等四〇名程度の家来(幕府扶持人も加わる)で編成されていたので、
一行は少なくも一二〇名以上の大人数での巡察であった。
巡見使の発遣が決定するとその藩にとっては重大事である。何分にも藩の内情がすべて明らかになってしまい、事実を隠
蔽していることが分かった場合は、正に命取りになってしまう。従って質問に対する答弁まで統一するように配慮し、あまり
必要のない処は巡見をさせず、御馳走攻めにしておくことを心掛けた。
そんな事情を証明するような古文書が鳥取で発見された。

<幕府巡見使の巡察に関するおもしろい古文書見つかる。>

朝日新聞 朝刊 2008/1/29


「石谷家住宅」で見つかった江戸時代の「巡見使」に関する史料=28日、鳥取県智頭町
大庄屋が事前に作って藩に提出、藩側は模範解答などを朱文字で書き込んで送り返した。


鳥取県智頭町・町教委によると、古文書は、享保年間から天保年間にかけての約70点。江戸後期に智頭町で大庄屋を
務めた石谷家の文書から見つかった。
このうち、天明7(1787)年の「御巡見様御用御窺(うかがい)帳」では、智頭郡大庄屋の石谷伝三郎が、巡見使の視察
に備え、年貢や税金の取り立て状況など、質問されそうな項目を個条書きにして鳥取藩に回答を相談。藩が朱書きで模
範回答を示している。
 年貢米に関し、大庄屋が取り立ての際に使われている升についての対応を尋ねたところ、
鳥取藩は「その件は別途、面談する」と回答。藩は幕府が統一基準とする「京升」より大きな「納升」で取り立てながら、
「京升」分を上納していたとみられ、調査にあたった同町誌編纂(へんさん)専門員の村尾康礼さんは「藩が不正をごまか
そうと、大庄屋と口裏合わせをしようとしたのだろう」と推測している。     <朝日新聞 朝刊 2008/1/29より>

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