武一騒動 (ぶいちそうどう)



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武一騒動勃発の時代背景
明治新政府は明治二年(1869)六月各藩主を知藩事、七月藩知事に任命したが、中央集権の改革が徹底しない
政治機構であったため、明治四年(1871)八月二十九日(旧暦七月十四日)にそれまでの藩を廃止、地方統治を
府と県に一元化した行政改革として廃藩置県を断行する。
それまで旧藩主が任命されていた藩知事の役は廃止され、つまり藩から県となり、東京への移住が命じられる。
各県には藩知事に代わって新たに中央政府から県令が派遣されることとなった。
一部を除き旧藩とは縁の無い人物を任命する為に、その県の出身者を起用しないしない方針を採った。
こうした状況から安芸国最後となる藩主・藩知事の浅野長勲(あさのながこと)が東京へ移住した後に馴染みの
無い県令が来ることに民衆の不安が募って来た。
・・年貢が高くなるとか、男は労役に駆り立てられるとかの流布が出回り始め、先の藩主 浅野長訓(あさのながみち)
夫妻が明治四年(1871)八月東京へ移住するのを阻止すべく、各地から集結してきた数千人の農民が廣島城下に集結、
行く手をさえぎる騒動に発展した。十月には軍隊による鎮圧が行なわれ、やっと騒動が鎮静化する。
暴徒化した一団
百姓の代表として嘆願書を起草、提出して、騒動を指導したとされた人物が文政7年(1824年)山県郡有田村十日市
(現在 山県郡北広島町)生まれ本名森脇武一郎とされる。
武一の提唱は新役人が来ることへの不安から、農民が結束して旧藩主の東京移住を阻止しょうという素朴なものであった
という。しかし武一の一団に城下までの沿道の農民も加わり、集団心理から新政府・村役人・豪商に対する反発へと趣旨が
転化されるようになる。深刻な状況となった一団は結局農民一揆の暴徒化した集団となり、県下各地で豪商宅を襲い狼藉の
限りをつくすこととなる。
玖島の八田家(くじまのはったけ)
廿日市近辺では佐伯郡玖島村(現在 廿日市市玖島)の豪農であり財閥でもあった八田家(はったけ)(小田ともいう)を襲う。
文政十年(1827)に建てられた屋敷の長屋門の門柱に武一騒動のときの刃物の切り傷が現在も残っている。
武一騒動の結末
一連の騒動が鎮圧された十月に武一は一揆の首謀者とみなされ、その罪を問われ処刑された。享年48歳。
玖島村八田家の騒動に加わった者にも処罰があった。
永原村 百姓四人が処罰。
・・・不埒(ふらち)に付収しょく金(罰金) 壱両壱歩申付る者也 十五歳
・・・不埒に付杖六十申付る者也                 十八歳
・・・酔中とは申ながら彼是強談に及び候段不埒に付きむち一十申付る者也 二十四歳
無構(かまいなし)                             
杖は棒で叩く刑・・・・・刑が重いとき
むちはむち打つ刑
刑が執行されたのは八田家の近くの正善寺で、刑執行の悲鳴が遠くまで聞こえたという。


八田家全景 米蔵
八田家長屋門 長屋門 門柱の切り傷


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