江戸の食文化


トップ 特集1江戸の文化いろいろ江戸の食文化3


山谷 八百善 やおぜん
関東に三十年近くいて八百善を知らなかった。八百善は八百の字がつくのでその前身は八百屋と推測
したが、調べてみると正しくは八百屋であった。
明暦の大火(1657)後に、新鳥越2丁目(現山谷=東浅草一丁目)で八百屋を始め、八百善の由来は、
八百屋の善四郎の名からと云う。
その後文化年間(1804−18)に仕出し料理屋を始め、文政(1818−30)の初め頃から座敷で客を
とる料理屋に、一時、仕出しのみを業とし、また客をとりと、色々変遷しながら繁昌していったようである。
四代目の主人 栗山善四郎が粋人とみえ、交友範囲が広く、其の当時、活躍していた文人墨客達に挿
画など依頼したのであろう、『料理通大全』を発刊するに至る。
白鬚神社(しらひげ神社) (墨田区東向島3-5-2) に新吉原の大見世「松葉屋」、山谷吉野橋の超高級料亭
「八百善」が文化二年(1805)奉納した狛犬がある。文化元年に仕出し料理屋を始め、翌年に狛犬を奉納
していることからして、相当羽振りがよかったのであろう。
現在は、中央区銀座6−5−1にて十代目となり、盛業との由。
新吉原松葉屋、山谷八百善 奉納

図絵の紹介(画像をクリックすると拡大)
右新吉原、左浅草寺、中央に横たう人の往来する日本堤 八百善を望む図
中央部に「八百善」が見える

八百善亭
享和(きょうわ)三年 癸亥(みずのとい)
1803年 八百善 開業

この料理本編成に携わったであろうと思われる四人衆
( 鍬形寫ヨくわがた・けいさい> 画
この料理本刊行に携わったと考えられている文人墨客達
左から 谷 文晁か大窪詩佛・酒井抱一・亀田鵬斎・蜀山人(大田南畝)
とされてきたが、その後研究が進み、
左 大窪詩佛・奥 亀田鵬斎・右 蜀山人(大田南畝)
手前の人物が酒井抱一とされてきたが紋から画家鍬形寫ヨ 自身
であると考証されたと云う。

(人物については、江戸の食文化 弐 参照)

戻る  Top   次へ