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上不見山 浄土王院 極楽寺

<2008/4/14撮影>

上不見山浄土王院極楽寺 (じょうふけんざん じょうどおういん ごくらくじ) 
極楽寺の変遷
日本三景の安芸の宮島を眼下に望む、絶景ビュー にある真言宗極楽寺は、標高663bのモミの原生林に囲まれた
極楽寺山山上 にある。極楽寺の位置は、不思議と厳島弥山の頂上・厳島神社・御前神社の真北になる。
またこの山は、別名をその本尊、 十一面千手観音菩薩座像にちなんで、観音山かんのんやまとも言う。寺伝によれば、
天平九年(737)行基が当山頂の杉の霊木で千手観音を刻み、堂を建て開山した。その後、弘法大師が開眼供養
かいげんくようされ、寺の再興がはかられた。
諸控に「文治三年後鳥羽院御願依り佐藤則清再建天文十年四月焼失永禄五年八月毛利元就朝臣[注]御再建」と
ある。
平安中期以降できた極楽寺本堂は破損したので、今から821年前、後鳥羽院の願いにより、文治三年(1187)に佐
東則清なる人物により再建した。ところが、天文十年(1541)に焼失してしまった。そして荒廃していたので、永禄五
年(1562)八月 毛利元就が再建した。今から446年前、厳島合戦において陶晴賢すえはるかた に勝利すること七年後
のことである。
延宝年の鐘の鐘銘(しょうめい・・・釣り鐘にしるしてある銘文。)によると、明応(1491)以前の頃、当寺に鐘があった
が、あるとき賊に盗まれた。そこで、桜尾城主でもあり、厳島神社神主家の藤原宗親を大壇那 (多くの布施を寺に出
す有力な檀家)として鐘が新しく造られたとある。元就再建後、446年経ており、その間、屋根の宝珠 (上方がとがり、
火炎が燃えあがっている様子を表した玉。これによって思うことがかなえられると説く。) の露盤 (宝珠を受け方形屋
根の頂部をおさえる方形の台。)、屋根は、慶長四年(1599)宍戸備前守元次が大檀那として修理している。
この宍戸備前守元次(ししどびぜんのかみもとつぐ)は、元関東武士で、南北朝 建武元年(1334)に現安芸高田市
に地頭として入部 (初めて領地に入る)以来、安芸国の豪族として、後に毛利氏と姻戚関係ができ、その族将として
活躍した。甲立こうだちの五龍城主なれど、五日市光明寺城の守所で、海老山の北麓に元次宅があった。 
古くは、平清盛をはじめ、大内・毛利・豊臣秀吉・福島正則などが庇護していた。
しかし、江戸時代に入り、徳川幕府は厳島神社・極楽寺など一切の支援交付金は出さなかった。そのため、宝永元
年・天明八年・寛政二年・文政三年などの修理は、有力大檀那の尽力により進められ、こうして本堂は今に伝えら
れているのである。

[注] 朝臣 あそん・・・・・三位以上の人の姓の下、四位の人の名の下に付けて敬意を表す。
毛利元就朝臣・・・従四位上、右馬頭、治部少輔、戦国時代の武将。
大内義隆が家臣陶晴賢(すえはるかた)に倒されたのち、陶氏を討って周防・長門を支配下に収め、出雲の尼子氏を倒
して中国地方十ヶ国を制覇する
屋根頂上部の宝珠露盤ほうじゅろばん  

矢印の方形部に銘あり

木造十一面千手観音菩薩坐像
(もくぞう じゅういちめんせんじゅかんのんぼさつざぞう)
2008/4/20 御開帳されます。(例年 春の祭り  4月第3日曜日)
坐像高206aの一木造りで、当極楽寺の御本尊です。
両目からあごにかけて見える線が涙に見えることから「涙流しの観音」といわれている。
大体千年ほど前の平安中期の作と伝えられる。

木造阿弥陀如来大仏 (阿弥陀堂内)
もくぞうあみだにょらいだいぶつ(あみだどうない)

この阿弥陀如来大仏は、数十年前完成当時は、日本一の大きさであった。九月二十三日秋分の日 阿弥陀如来大
仏塔婆供養が執り行われる。
仏教は、今から2500年ほど前にインドでお釈迦さまが悟りを開かれ仏陀となられたことを出発点としているので、仏教
とは、その「仏陀の教え」ということになる。またその教えは、修行によって人間の苦しみを解決する教えでもある。
という。


木造板半肉彫虚空蔵菩薩像
もくぞうばん はんにくぼりこくうぼさつぞう

かって当寺院にも救聞持堂があったときの本尊。
救聞持堂(くもんじどう)は、百日間、百万遍の真言
を唱える密教最大の苦行であるという修行の場。
虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)は
『ノウ ボウ アキャシャ ギャラバヤ
 オン アリキャ マリボリ ソワカ』
の真言を百日間 百万遍か五十日間で二百万遍、
つまり一日一万か一日二万遍唱和するのである。
五十日間だと一日二回 (一回一座一万遍を二座)拝む。
一座およそ六時間を二座とはまさに苦行である。

真言唱和 1分当りの試算をすると

100万÷100日=1万回    1日
1万÷24時間=417回      1時間
17÷60秒=7回         1分

1分間 7回では、食事する暇はない。
 達成は至難の業であろう。

十三仏とは
亡くなった人を浄土(仏が住む欲望や苦しみのない世界)に導く13人の仏様です。
初七日から33回忌まで、それぞれに担当が決まっています。インドでは亡くなった人への供養として、亡くなった
日から七日目ごとに7回の法要(仏教の儀式。主に、葬儀・追善供養 (死者の霊に供え物などをして、その冥福を
祈ること)) が行われました。7×7=49日が過ぎると死者は他の生を受けると考えられました。この49日の期間を
中陰、中有といいます。一人前の仏となる為に13の仏様が私達を導いて下さいます。
この十三仏の始まりは室町時代にまで溯り、宗派を問わずに大勢の人々に信仰され、今日に伝えられています。

十三仏とその功徳
@初七日忌−不動明王
A二七日忌−釈迦如来
B三七日忌−文殊菩薩
C四七日忌−普賢菩薩
D五七日忌−地蔵菩薩
E六七日忌−弥勒菩薩
F七七日忌−薬師如来
G百 日 忌−観音菩薩
H一 周 忌−勢至菩薩
I三 回 忌−阿弥陀如来
J七 回 忌−阿?如来
K十三回忌−大日如来
L三十三回忌−虚空蔵菩薩
一般的には、五十回忌を故人の年回法要の区切りとすることが多いようです。
五十回忌の法要以後は一括して”ご先祖様”の仲間入りをし ていただこうということになります。

銅製 梵鐘

総高      99p
外口径    63p

作 山田次右衛門藤原貞家

山田次右衛門藤原貞家は、承久三年1221年
周防前司藤原親実が厳島神主職になり、桜尾
城主となったとき、鎌倉から厳島造営修理のた
め呼寄せられた鋳物師である。以来廿日市に
定住した。
銅製 鰐口 わにぐち

直径45pはまれに見る大きさである。
明応二年(1493)大工久信 作

鰐口とは、神社仏閣の正面の軒に、
布で編んだ縄とともにつるされた円
形で扁平中空の金属製の音具
(音を出す道具)。下方が横に長
く裂けている。
参詣者が縄でたたいて鼓面を打
ち鳴らし、誓願成就を祈念する。

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