廿日市湊・北前船 1 

ー諸国からの入津ー


 昭和六十二年 「北前船と芸州廿日市湊」 佐伯録一氏著によると、天満宮、
の前の廿日市湊にあの「北前船」が出入りしていた記録がある。

廿日市湊で古くより米穀等萬問屋であった大和屋の「大和屋御客帖」によれば、
北前船の基地である北陸地方から 鯡・ 鮫・ 鰰 などが入荷している。

(本帖の内容) 明治十七年酉一月より記録
関係府県発港      17
船舶隻数      548隻
最小  八反帆(100石積み)
最大 廿七反帆(1200石積み)
廿七反帆(1200石積み)  石川懸加賀国元吉より入港
船主 角屋、船頭 甚平    金剛丸
十八反帆 能登国七尾より 三宝丸
十八反帆 富山越中国東岩瀬より 神通丸
十八反帆 富山越中国平岩瀬より 宝寿丸
其の他12から17反帆、不明反帆11隻が入港している。

北前船とは、日本海海運に就航していた北国地方の廻船のうち、江戸中期
以降 寛文十二年(1672) 河村瑞賢によって開拓された蝦夷地と大坂を直行
する西廻り航路に就航していた米のみならず、海産物や農産物を運ぶ廻船
(国内沿岸の物資輸送に従事した荷船) に対する上方地域での呼称。
「きたまえ」とは日本海をいう。

当時の船の大きさは、反帆で表す。
一反幅の布を三枚合わせた幅の帆のこと。
二反帆は一反帆の二倍幅の帆一枚。
二反帆の船は5〜6尺幅の帆を一枚あげた
船で、釣り船程度である。
大きな船では千石船というが、二十〜
二十五反帆の船に相当。
明治期太政官布告て゛、千石船が150トン、
五百石船が75トンに換算される。
文政二年(1819)の記録では、廿日市湊の船は三百石積み 一艘(そう)、
二百五十石積み 一艘、 六十石積み 11艘、四十石積み 4艘、 
三十石積み 2艘、十石積み 5艘。
つまり、300〜250石の中型船が2隻、60〜30石の小型船が17隻、
二反帆の釣り船級5隻となり、運送を主体としていた。


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