廿日市という地名の成り立ち


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仁安三年(1168年)神主佐伯影弘の経営手腕?、ゴマすり外交?による平清盛の信任を得、厳島神社の現在のような原型か゛出来て、神領の中心であった廿日市地域はより発展していった。当時は「旗浦」といい、まだ廿日市の地名はない。
南北朝時代の応安四年(1371年)鎮西探題として九州に向かう途中この地に寄った今川了俊(貞世)の『道ゆきふり』という紀行文には「九月十九日かひたの浦からしほひの浜を通って・佐西の浦に到着し、翌二十日厳島に参詣し夕方左西の浦に戻り、翌二十一日佐西を出て・地の御前といふ社の西ひがたより山路に入るほどに・・・」とあり、南北朝時代にはこの地が「佐西の浦」と呼ばれていた。
ちょうど応安のころ、鎌倉時代から厳島神社の神主家になった藤原家がこの地に在地し始めた頃と推定される時代で、桜尾城を神領の中心とし、その後室町時代に神主家は明・朝鮮と交易し、城下にも豪商・船方等がいたと推定される。市場が開かれ、宿場町として、交通の要衝として発展していく。
小田文書に、享徳三年(1454年)廿日市の鋳物師ひかしかり屋三郎次郎が周防の賀茂の鐘を鋳たのを揚井の金屋の面々に商権侵害の点に就てわび状を入れた古文書があり、このころ初めて廿日市という呼称がでてくる。
かり屋とは仮設の店舗のことで鋳物師(いもじ)三郎次郎の鋳物仕事の場であった。
一三〇〇年代は佐西の浦、廿日市なる地名がなりたったのは一四〇〇年代ということになる。


中央部に廿日市 ひかしかり屋
三郎次郎 (花押)
歴史上初めて廿日市の呼称があったことがわかる。
参考文献 廿日市町史 資料編 T P609

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