元祖法然上人の教え(浄土宗宗歌)
第十八霊場 山城の国 愛宕 月輪寺 和歌
(法然上人二十五霊場とは、法然上人のご誕生からご入滅に至るまでの、主な遺跡二十五ヶ所のことです)
月影の いたらぬ里は なけれども
        眺むる人の 心にぞすむ
                     法然上人
この歌は念仏の心を読んだ万人への教えで、次の意味があります。                                                                  「月の光が届かない人里などないのですが、月を眺める人の心の中にこそ月(月の影)は、はっきりと存在してくるのです。」
 月の光は阿弥陀仏の救いのことで、それが届かない里はない。すべての里に届く。したがって、阿弥陀様の救いは万人を対象としている。ただし、目で見て認識しない限り月はないも同然である。見ることによってこそ月は存在するのである。見れば必ず見る人の心にまで届くものです。見さえすればよいのです。(念仏さえすればよい)。
阿弥陀様のすべての人を漏らさず救うというお誓い(本願)は、月の光のように誰にもどんな里にも平等にふり注いでいます。しかし眺めた人にしか月の光の存在が分からないように、南無阿弥陀仏と念仏を称えた人だけが阿弥陀様の本願によって極楽浄土に生まれること(往生)ができるのです。
法然上人は「月かげ」の歌に、『観無量寿経』の一節「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」のこころを説いている。。
この時代は、政権を争う内乱が相次ぎ、飢餓や疫病がはびこるとともに地震など天災にも見舞われ、人々は不安と混乱の中にあった。学問をして経典を理解し、厳しい修行をし、自己の煩悩を取り除くことが「悟り」であるとした当時の仏教は貴族のための宗教と化し、民衆は仏教とは無縁の状態に置かれており、不安におののく民衆を救う力を失っていた。そうした仏教に疑問を抱く法然上人は、一切経の中から阿弥陀仏の本願を見いだすのである。法然上人の教えは、厳しい修行を経た者や財力のあるものだけが救われるという教えが主流であった当時の仏教諸宗とは異質のものであった。
「南無阿弥陀仏」 と唱えればみな平等に救われる・・・。                                         法然上人の教えは時の摂政である九条関白兼実(くじょうかんぱくかねざね)など貴族や武士だけでなく、老若男女を問わずすべての人々から衝撃と感動をもって受け入れられた。
承安5年(1175)法然上人43歳の春のこと、ここに浄土宗が開宗された。
ところが法然上人の弟子である住蓮、安楽が後鳥羽上皇の怒りをかう事件を起こし、旧仏教からの弾圧も大きくなり、建永2年(1207)、法然上人は責任をとらされ四国流罪の憂き目にあう。5年後の建暦元年(1211)に帰京するも、翌年病となり、弟子の源智上人の願いを受け、念仏の肝要を一筆書きにしたためる。
それが「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」と述べた『一枚起請文』である。
長承(ちょうじょう)2年(113347日、美作国(現在の岡山県)久米南条稲岡庄(くめなんじょう いなおかのしょう)、久米押領使くめおうりょうし)・漆間時国(うるま ときくに)、母 秦氏(はたうじ)の長子として生れ、幼名を勢至丸といった法然上人は建暦2年(1212)正月25日 80歳で逝く。
800年を経た今日もそのおしえは人々の「心のよりどころ」となっている。
月影の いたらぬ里は なけれども
        眺むる人の 心にぞすむ
                     法然上人   御歌
この歌碑が最近、山口県岩国市錦町宇佐の民家の庭園に建立されと聞き、拓本を取らせて頂いた時の写真。
この歌碑の心を信じ精進されたところ、癌の進行がややおさまりつつあるとのお話でした。(2006/12/14)


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