厳島神社関係 棚守・祝師・神祇の墓について


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2007年
1月9日、「厳島信仰事典」 野坂元良編 2002年11月1日刊 戒光祥出版に
記述される墓所を探しに出かけた。場所はJR宮島口駅の真裏(山側)に位置する。


まず延命寺に立ち寄り、住職夫人に所在地とそこは中山墓地であることを教わる。

ここは延命寺の地所で「中山墓地」という。現在の宮司家の墓所は西側にあたる
御室山墓地おむろやまぼちにあるらしい。佐伯鞍職・棚守房顕の墓地はわからない。
佐伯鞍職は宮島の社に数ヶ所祀られている。


延命寺は800年くらい前に創建らしいので、厳島合戦のときの死者はここ延命寺の
本堂裏山に焼き場があり、そこで荼毘に伏したのか・・・・?。

現在は焼き場も閉鎖され、廿日市市宮内に旧宮島・大野町との広域の焼き場
に集約されていることを教わる。


2009/2/5記
 この地に神官の墓があることに何の疑問も持たなかったが、ふと対岸の宮島に
ある三翁社の横に「祖霊社」があることを思い出した。
 宮島には墓はない。厳島社関係者も島民と同様に、往時より禁止されている。
神仏習合または神仏混淆(しんぶつこんこう)の時代に神官の墓は建立された
ものであり、明治新政府により出された神仏分離令(正式には神仏判然令

降においては、仏教による祀りごと一切神官は禁止され、神道にのっとり祖霊社
に神として祀られているのである。


明治期神仏習合により、神官はここ祖霊社に神として祀られている。



「中山墓地」

墓所への途中の両側に墓碑散乱している中を上ると墓群が見えてくる。40基以上あるのか?
江戸時代初期から後期まで5〜6基は読み取れる。・・・・・・・(神仏習合の時代の墓ばかりで、明治期以降の墓は見受けられないようである))
現場では墓石の風化もあり、読めない墓が数多く、また所狭しと所在しており、傾いた墓石もあり、近すぎて撮影もままならない。
とりあえずデジカメで撮影し持ち帰り、パソコンで拡大して判別した。

享保拾二丁未年(1727年) 寛保元辛酉八月十四日(1741年)
1.文化三丙寅年(1806年)
2.寛政七年乙(1795年)
3.神祇紀親  
4.天保十三年壬寅年 正月廿日卒(1841年)


故厳島神社宮司野坂元延墓



その他確認できた墓碑名

神祇親道 神祇守行 就親神祇 林市正
神祇紀親 元教神祇 元清神霊 林守安霊神
神祇親盈 元房神祇 惟房墓 千代鶴
神祇親忠 元房室神祇 秋光院妙厳顔大姉


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