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常念寺

堅田源右衛門の像


(2007年9月15日特別拝観)

真宗本願寺派 宝州山と号す。
永正十一年(1514)僧 誓珍により開基。

四年後、大内義興 佐西郡を支配
(厳島神領の直接支配)する時代
となる。
本尊  木造 阿弥陀如来立像

堅田(かたた)源右衛門の像
堅田(かたた)源右衛門の像
 常念寺で特筆すべきは、「堅田(かたた)源右衛門の首」伝説の堅田(かたた)源右衛門の像があることである。
浄土真宗の祖、親鸞聖人の御影堂(廟所)であった本願寺第七世存如の長子として生まれ、幼名は布袋丸と呼ばれていた蓮如上人(1415〜1499年)は、親鸞聖人没後、すでに百数十年が経ち本願寺へお参りする人も少く、本願寺はさびれていたが、四十二歳で第八世を名乗り、浄土真宗の教え「御文(御文章)」を表し、布教活動をし、文字の読めない農民、小作人、職人など下層社会に属する人たちの圧倒的な支持を得る。時代のうねりが大きく動くその時、南北朝時代末、比叡山延暦寺の衆徒は、寛正六年(1465)、本願寺を焼き討ちする-「寛正の法難」。
寛正の法難に会う直前、本願寺から持ち出した御像は、湖南・湖西の各地を転々としていた。蓮如は三井寺の万徳院住職長命に、本願寺再興の時まで御像を預かって欲しいと念願して北陸へ布教の旅に出る。
こうして京から敗走した蓮如は、近江の国、琵琶湖の西部に位置し、湖上交通の拠点堅田の本福寺住職の法住の元に身を寄せる。浄土真宗の教え「念仏」を唱えれば救われると教えていた法住と共に蓮如は比叡山のふもとで、一心に念仏を唱えるだけで救われるという新しい教えを説いていた。応仁二年(1468)、再び山門の大がかりな攻撃を受ける。「堅田の大責」である。
五十七歳となっていた蓮如は、浄土真宗の教えを広めるため越後、加賀地方へ旅に出る。布教の拠点として選んだ吉崎(福井県金津町)に坊舎を構えた蓮如は、飢餓で苦しむ農民や、宗門内部の対立など問題の解決に奔走し、わずか三年で本堂、坊舎、庫裏、書院、楼門などを備えた一大寺院を築く。しかし、急速に巨大化したため膨大な資金をめぐっての内部分裂、二千人以上の死者を出したという地侍と門徒集団のたび重なる戦いが続き、ここを去る。


文明十二年(1480)山科に念願の本願寺御影堂が完成する。門徒衆は三井寺に親鸞聖人の御像の返還を求めると三井寺はそれは出来ぬ、信徒衆の首を二つ持ってくれば返してやると無理難題を持ち出してきた。これを伝え聞いた蓮如上人は、困惑され日夜心痛なされていた。当時光徳寺の門徒衆に篤信の源右衛門・源兵衛という漁夫の父子がいた。この難題に 源右衛門・源兵衛親子は、日ごろのご恩に報いたいと、首を差し出す決意をした。こうして堅田の源右衛門は息子の源兵衛の首を持参し、もう一つは自分の命を差し出すからと返還を懇願する。
三井寺は堅田の源右衛門・源兵衛親子の殉教心に感じ入り、御真影と源兵衛の首を返してくれた。その後父源右衛門は、諸国巡礼の旅の末、備後国(広島県)で没したと伝えられている。
なぜ廿日市の地に、堅田(かたた)源右衛門の像が伝承されているのか、その訳は、当寺でも不詳である。



京都 浄土真宗本願寺派 常楽寺所蔵の宝塔に親鸞の遺骨確認

参照は ここ  と ここ


<浄土真宗 御歴代宗主>

御開山 親鸞聖人(しんらんしょうにん) 1173−1263。御正忌1月16日。90歳。 現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮の大進(だいしん)・公家の日野有範(ありのり)の長男として生まれ、母は、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「吉光女(きっこうにょ)とされ、幼くして比叡山で出家する。
第2代 如信上人(にょしんしょうにん) 1235−1300。御祥月2月2日。64歳。 親鸞聖人のご長男・善鸞(ぜんらん)上人のご子息
第3代 覚如上人(かくにょしょうにん) 1270−1351。御祥月2月23日。82歳。 親鸞聖人の末娘・覚信尼(かくしんに)公のご子息・覚恵(かくえ)上人のご長男、つまり親鸞聖人のひ孫
第4代 善如上人(ぜんにょしょうにん) 1333−1389。御祥月4月4日。57歳。 第3代覚如(かくにょ)上人のご次男・従覚(じゅうかく)上人のご子息
第5代 綽如上人(しゃくにょしょうにん) 1350−1393。御祥月6月12日。44歳。 第4代善如(ぜんにょ)上人の息男
第6代 巧如上人(ぎょうにょしょうにん) 1375−1440。御祥月11月17日。65歳。 第5代綽如上人の第2子。
第7代 存如上人(ぞんにょしょうにん) 1398−1457。御祥月7月18日。62歳。 第6代巧如上人の長男。
第8代 蓮如上人(れんにょしょうにん) 1415−1499。御祥月5月14日。85歳。 第7代存如上人の長男
第9代 実如上人(じつにょしょうにん) 1458−1525。御祥月3月5日。68歳。 第8代蓮如上人の第5男。
第10代 証如上人(しょうにょしょうにん) 1516−1554。御祥月9月19日。39歳。 第9代実如上人の第3子・円如上人の長男
第11代 顕如上人(けんにょしょうにん) 1543−1592。御祥月12月27日。50歳。 第10代証如上人の長男
第12代 准如上人(じゅんにょしょうにん) 1577−1630。御祥月1月2日。54歳。 第11代顕如上人の第4子。
第13代 良如上人(りょうにょしょうにん) 1612−1662。御祥月10月18日。51歳。 第12代准如上人の次男。
第14代 寂如上人(じゃくにょしょう) 1651−1725。御祥月8月15日。75歳。 第13代良如上人の次男。
第15代 住如上人(じゅうにょしょうにん) 1673−1739。御祥月9月8日。67歳。 左大臣九条兼晴の第3子で、寂如上人の第16女如浄尼公を内室とされ、1725年寂如上人の逝去を受け、53歳で宗主を継職
以下省略


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