鎌倉の歴史探訪
2007/2/16 渋谷区東4-9-1 白根記念 渋谷区郷土博物館・文学館で開催(1/16〜3/18)されていた
「伝説のつわもの 渋谷金王丸」特別展一泊二日で出掛けたときの探訪を整理した。
(2/16 品川プリンスホテルからバスで鎌倉入り)

◆鶴岡八幡宮を訪ねて◆
頼朝鎌倉に入部
「要害の地であり、また源氏ゆかりの地である相模国鎌倉へ行き、源家中絶の跡を復興すべき」という千葉常胤(つねたね)
のすすめにより、治承四年(1180)十月七日、源頼朝は関東の有力武士団を率いて鎌倉に入部する。
同年十月二十日、平氏の軍勢を討つため駿河へ出陣、富士川の戦いで平維盛(これもり)を討ち破り鎌倉へ戻り、以後東国
経営に専念する。
十一月十七日に御家人(将軍に直属する武士)を統括する機関として和田義盛(わだよしもり)を長官に任じ「侍所(さむらいどころ)」
,門注所(裁判所)を幕府内に設置、小町大路に公文所(政務を処理する役所)、御家人の屋敷もつぎつぎと築造された。
十二月十二日には、かねてより建造中の大倉(現 鶴岡八幡宮東)の新邸を幕府の本拠とした。
都市建設に従事する職人や、御家人相手の商人もこの地に定住するようになり、半農・半漁の村であった鎌倉の地が政治・
軍事都市へと変貌していった。
鶴岡八幡宮造営
鎌倉に入部した頼朝は、八幡宮を由比ヶ浜から小林郷北山に遷(うつ)した。松の柱に茅葺屋根という粗末なものであったので、  
治承五年(1181)五月、土肥実平(どいさねひら)、大庭影能(おおばかげよし)らに命じて、八幡宮造営事業を開始、七月には
武蔵国浅草の大工が召された。
こうして新装なった八幡宮は平家追討の祈祷や供養、幕府の儀式、年中行事もしばしば催され、鎌倉武士の精神的紐帯
(ちゅうたい)でもあった。(紐帯・・・人と人とを結びつける役割を果たす大事なもの)
鎌倉政権のシンボルである八幡宮は建久二年(1191)三月四日、鎌倉中を襲った大火で灰燼(かいじん)に帰した。
火災を避けるため本宮は現在の位置の山の中腹に移し、石清水八幡宮を勧請(かんじょう・・・神仏の分霊を他の場所に移し
まつること。)した。翌治承6年(1182)七月十二日、頼朝は征夷大将軍の称号を勅使中原影良・康定(かげよし・やすさだ)らから
再建宮の社頭にて受け取る。
大路造営(おおじぞうえい)
寿永元年(1182)、頼朝は八幡宮の参道として若宮大路築造を開始、当時この付近は湿地帯で道の中央部に参詣人の往来を
容易にするため置石が敷かれ、これが現在の段葛(だんかずら)にあたる。
この大路造営は、頼朝の妻政子の安産祈願のためであったといわれる。源家嫡子として生まれた頼家は十数年後政子・
政子の父北条時政(ときまさ)により死に追い詰められるとは・・・・・・。
二代将軍頼家から実朝へ
頼朝の長子頼家(よりいえ)が第二代の将軍となるが、十八歳の若き将軍に不安を感じた重臣たちは、頼家の訴訟決裁権を剥奪
し、北条氏を筆頭とした十三人の有力御家人による合議制を発足させた。
建仁三年(1203)九月、頼家が病気になると北条時政らは頼家の乳母の生家で頼家を擁護する比企一族をほろぼし、十二歳の
実朝(さねとも)を三代将軍にすえた。病中回復の頼家はその後伊豆修善寺に幽閉され、刺客にり暗殺された。
源家滅亡・北条氏の権力掌握
畠山重忠(はたけやましげただ)、和田義盛(わだよしもり)ら有力御家人を殺害し、父時政(ときまさ)をも追放した北条義時(よしとき)
がすでに幕府の主導権を掌握していたため、実朝は影の薄い将軍であった。
御家人長沼宗政(ながぬまむねまさ)は「当代は歌・蹴鞠(けまり)をもってわざとなし、武芸は廃するに似たり」と武芸よりも風雅を
好む優柔不断な将軍実朝に対して不満をのべている。
承久元年(じようきゅうがんねん)(1219年) 一月二十七日雪の日の夜、鶴岡八幡宮で行なわれた実朝の右大臣就任の拝賀式
の最中、拝礼より退出する実朝に石段の際(きわ)・・・(銀杏(いちょう)ではない)・・・にひそんでいた頼家の遺児公暁(くぎょう)が
「父の敵(かたき)を討つ」と名乗り実朝を暗殺、雪ノ下の備中阿闍梨(びっちゅうあじゃり)(密教で、修行が一定の段階に達し、
灌頂(かんじよう)を受けた僧。)の住坊へ逃げた。食膳の間すら実朝の首を離さなかったという。
公暁は事件の処理を三浦氏に託していたが、北条義時の命を受けた三浦義村は義村邸へ向かう途中の公暁を惨殺した。
こうして有力御家人の勢力争いの中、源氏の正統はわずか三代にして滅び去ったたのである。
頼朝の鎌倉入部、征夷大将軍就任、実朝暗殺による源氏断絶など、鶴岡八幡宮は、武家政権の重要な舞台を演出する役割
を果たした。
鎌倉の防衛
三方が山で一方が海で守りやすい地形であり、町自体が長い城壁に囲まれた城郭都市の構えであったので、「鎌倉城」といわれ
た。幕府は交通の便のために山を削り、切リ通しの道を造った。極楽寺坂・大仏坂・化粧坂(けわいざか)・亀ヶ谷坂(かめがやつ)・
巨福呂坂(こぶくろざか)・朝比奈坂・名越坂(なごえざか)の「鎌倉の七切り通し」である。
鎌倉炎上 北条氏の終焉 鎌倉幕府崩壊
元弘三年(1333)五月十八日から二十二日にかけて、新田義貞(にったよしさだ)軍は極楽寺・巨福呂(こぶくろ)・化粧(けわい)の
三方から鎌倉へ攻め入り、北条高時ら一族は東勝寺で自害、幕府はあっけなく滅び、鎌倉の町は紅蓮(ぐれん)の炎に包まれた。
二十一日新田義貞は主力を稲村ヶ崎に集結、付近の漁夫たちから大潮の日が近い情報を得て、黄金作りの太刀を海神に捧げる
というパフォーマンスで兵士たちの戦意を昂揚させ引潟(ひきがた)を一気に鎌倉へと突入した。
義貞の勢ハあさりをふみつぶし
新田義貞の軍勢の鎌倉攻めは、稲村ヶ崎の要害を大潮の干潮時を利用して、不意をついた徒歩で攻め入ったことから、
浅蜊(あさり)の繁殖場を踏みつけていったことを詠んだ古川柳である。 云い得て妙なり。
資料

戻る   Home