古代から中世の廿日市


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古代から中世にかけて時代の変遷と廿日市の遺跡から町の様子を探訪

日本史時代区分表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(時代区分についてはその始期・終期について諸説あり、あくまで参考に)

はじめに、廿日市町(はつかいちちょう)は、昭和六十三年(1988)に市制施行し、その後、平成になり、二度合併
している。平成十五5年(2003)三月一日佐伯町さいきちょうと吉和村よしわむら、さらに、平成十七年(2005)十一月
三日佐伯郡さえきぐんの大野町おおのちょうと宮島みやじまちょうである。これら2度にわたる平成の大合併により、由
緒ある佐伯郡の名が消滅してしまった。佐伯郡はこれら四町村以外にもあり、佐伯郡能美町・沖美町・大柿町が
平成十六年11月一日江田島市に、佐伯郡湯来町が平成十七年四月二十五日広島市佐伯区にそれぞれ合併し
たからである。
広域廿日市になってしまったため、余りにも範囲が広くなり過ぎ、実は困っている。二年前歴史に挑戦しようと考
えたときは、所謂、旧廿日市を対象にしていた。現役を引退し、時間はたっぷりあるので、今住んでいる地元の事
を知ろうという単純な発想がきっかけであり、、自分にとって身近ではなかった宮島を除く三町村は、興味の対象
外であった。とにかく先ず地元-旧廿日市-を知ることからとの理由でこの項を取組むことにした。
自分にとって、桜尾城は、今はただの広場になっているが、廿日市(旧廿日市)のシンボルであると思っている。
鎌倉幕府御家人の藤原親実が厳島神社神主となり、その後、厳島神社の二度目の火事(貞応二年)から十二年
手付かずであったため、安芸の守護に補し、やっと再建修理がかなった。親実以来桜尾城は、神主家の居城とし
て、厳島神社の神領の保守、拡大にと武装した神主家としておよそ四百年にわたり、安芸国西部を中心とした要
であり続けた。
だから、桜尾城ありきの宮島とポリシーを決めた。 
歴史に取り組み最もがっかりしたことがある。それは、地元廿日市の歴史に関するサイトが藤下氏以外ほとんど
ないという現状である。ある事を調べるのに書店に行き、なければオーダーしと、手元に参考文献があればこれ
にこしたことはないしかし、専門家ではないし、書籍に投資するほどの銭はない。市の図書館の蔵書はほとん
ど持ち出し禁止で、情報入手に手間取り、歯がゆい思いをしていた。調べる資料がどこにあるのか、そのためだ
けに、遠方に行く気もない。そんな少々横着なスタンスである。
今はITの世である。ある事をネットで調べた時、思い通りの検索結果がヒットした時の感激と、なかったときの惨
めさの中で、自分自身のこの思いをごく一部の興味のある人に、伝えられればと、また自分の備忘録としてこの
サイトを立ち上げたのである。廿日市のことが、本は持っていなくても、ネットでわかる。そんなサイトにできれば
と「すきまの歴史」をキーワードに日々、自分で興味のありそうな情報を収集し,アップしている。

不便そうだが今でも宮島には墓はない。そんな神の島である。
明治以前の江戸時代中期頃、厳島神社の本宮に対し、対岸の地御前神社を外宮と呼び、血の穢にて子産める
女は外宮の宿院村にて出産後100日を過ごし、帰島する慣わしがあり、生理になると婦人は島内のアシ山に行
くなど、窮屈な生活を余議なくされていた。これらは厳島の風俗に関する事の一部である。
島中の禁制事項は芸藩通志に、忌に関する「厳島服忌令」宝永七年(1710)の写が伝えられている。
現在神社の一部神官は毎朝、身を清めないと神前には行かれないし、巫女も、かってのアシ山状態で出社まかり
ならんということのようである。
古代から中世にかけて廿日市は、その昔どんな状況であったのか知りたくて、廿日市町史をベースに、廿日市の
文化などを参考に、簡略にまとめたものである。       

旧石器時代
廿日市市内の旧石器時代の遺跡は、二ヶ所発見されている。
① 冠遺跡(かんむりいせき) -現 廿日市市吉和-
② 頓原遺跡(とんばらいせき) - 同上-
③ 速谷神社境内から旧石器末期から縄文時代のはじめごろとされる安山岩製の「槍先形石器」が出土している。
④廿日市町史通史編(上)P178 9行目に、『宮島町の北側海浜部に形成された遺跡群などがある』とある。
  このころには、廿日市周辺でも人の暮らしが見えてくる

縄文時代
およそ一万年前ごろ、氷河期の終わりに入り、次第に気温が高くなり、氷河が溶け始め、海面が上昇し大陸と陸
続きであった日本も、切り離されていき、現在の四島に分かれていった。瀬戸内海にも海水が侵入し始めてきた。
こうして気候の温暖化と海水面の上昇という地球の変化に地形・動植物も影響されることになった。
ナウマンゾウなど大型動物は、次第に姿を消し、かわってシカ・イノシシ・鳥類など小型動物が現れ、植物も、高地
へ針葉樹が移動し、低地には、広葉樹林が広がり、クリ・クルミ・ドングリなどの食用になる木の実類が見られるよ
うになった。一万年前から二二〇〇~二三〇〇年前ごろまでの約八〇〇〇年もの間続く縄文時代に人は弓矢・土
器を発明し狩や食物を煮て食べることを覚えた。
広島湾沿岸部の海抜二〇~三〇㍍の比較的海に近い円明寺遺跡(えんみょうじ)・利松住吉遺跡(としまつすみよし)
(広島市佐伯区)には、貝塚が見当たらない。
貝塚が見当たらないということは、その附近が海からかなり離れたところにあり、魚や貝を採集できるような環境に
はなかったことを示し、広島湾周辺は、海水の浸入が遅かった地域であると考えられている。それから気候は一段と
暖かくなり、海面は上昇し、次第に奥深く海水が浸入し、現在のような瀬戸内海の姿になるのは、縄文前期のはじ
め頃、約六〇〇〇~七〇〇〇年前ごろといわれている。
① 廿日市市地御前南町遺跡(はつかいちしじごぜんみなみまちいせき)-地御前-
  海では貝や魚が取れ始め、山里にはクリ・クルミ・ドングリなどの木の実類があり、それまでの台地・洞穴の生
  活から、海辺の生活に移行し、地御前海岸に縄文期 前・中期の人が住んでいた。これらの人々は海部(あまべ)
  と呼ばれ、また、この地域は海郷(あまごう)と呼ばれた。
  縄文後・晩期といわれる出土品の中で注目すべきは、約100㌔離れている大分県国東半島の姫島産の黒曜石
  (こくようせき)の石器で、九州地方の土器文化の影響を受けたものも見つかっており、遠隔地との交流のあったこ
  とがわかる。

弥生時代
人が米づくりを始めた時代である。稲作による定着が人口増加を生み、一つの共同体が形成された。
現代の農村地帯と同様な諸問題 稲田の順番・水利・土地の境界の紛争等が起きた時、リーダーシップを発揮し
た者が出て、この者がやがて共同体の支配者となり、縄文時代にはなかった階層が生まれた。
① 丸小山遺跡(まるこやまいせき)-廿日市市峯高二丁目 峰高第一公園附近-
   弥生式前期の遠賀川式土器(おんががわしきどき)が、北九州から伊勢湾地方まで西日本一帯に見つかって
   おり、このことは稲作が広まったことを示している。丸子山遺跡も弥生前期ころから稲作が始まっていた。
   宮内に弥生の人が住み、米作りをはじめた。
② 高尾山遺跡(たかおやまいせき)-極楽寺山中腹 丘陵尾根標高二六〇㍍-
   弥生時代後期の高地性集落。広島湾一帯を見渡せることで、稲作・畑作ができる環境ではないことから内海
  交通の要衝を見張る防塞(ぼうさい)的な性格をもった遺跡であるという。この弥生時代は、古代国家が成立す
   る過程で集団同士の争いが始まった時代といわている。

古墳時代
三世紀の終わりから四世紀のはじめになると、弥生の共同体の階層化はさらに進み、村相互間の支配と統合により
国が成立してきた。
① 高砂古墳 -宮内-
   五世紀の頃の古墳。古墳の外形は定かでないが、内部に竪穴式石室、割竹形木棺を埋納したと推定される擴
   が掘られている。この地域を支配していたであろう豪族の最も古い古墳であると推定されている。
   宮内・原・平良に住み着く人が多くなり、ごあん山・伴丈木・宮迫・岩戸山古墳等古墳が造られた。

大和朝廷
三世紀の終わりから四世紀のはじめに、畿内を中心に九州北部から中部地方にかけて支配下にいれた。
五~六世紀にかけて大和政権は、地方支配の強化策として屯倉(みやけ)と名代の部(なしろのべ)を設置した。
さらに国造(くにのみやっこ)制、地方首長の組み込みである。
阿岐国造(あきのくにのみやっこ)は安芸郷(府中)に本拠ありとされている。

律令国家
七世紀初頭、中国で唐が成立。蘇我入鹿(そがのいるか)と対立する中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)・中臣鎌足
(なかとみのかまたり)らは、皇極天皇四年(645)六月クーデターを断行。中大兄皇子を中心とする新政府を成立させ、
翌大化二年(646)正月四ヶ条からなる改新の詔(みことのり)が発布される。これは皇族・豪族の個別から公地公
民制による中央集権的な官僚制国家の樹立をめざす画期的なものであった。

改新の詔(みことのり)
公地公民の法
各豪族が支配していた土地や人民はすべて国のものとし、治水工事・道路工事・建築工事は国の仕事とする。
班田収授の法
こうして集まった国の土地となった田畑を、等しく人民に分け与える。
租・庸・調の税制
人民が国へ納める税として、祖は、稲の収穫の一部。庸は労働あるいは布織物。調は、地方の特産物。
国郡制度
全国を国と郡に区分けして統治する。

補足説明 【律令国家】 りつりょうこっか
律は刑法、令は行政法・訴訟法などに相当する律令を統治の基本法典とした国家。
中国の隋・唐で確立し、朝鮮をはじめ周辺諸国に波及。日本でも七世紀半ばから形成され、大宝律令の成立によ
り完成。整然とした官制の下、多くの官僚がこれを支え、班田収授によって人民に一定の耕地を給する代わりに、
租・調・庸・雑徭などを課し、さらに良・賤の身分の別を定めた。荘園制の進展などにより、公地公民制が破綻する
十世紀頃まで続いた。

このころ朝鮮半島では唐と新羅(しらぎ)が百済(くだら)を攻める様相を呈し、新政府は防衛強化を図り百済に援護し、
対立を深める。古来、安芸国は造船技術にすぐれ、遣唐使船などは安芸国で造られた。備後からは百済球援軍に
参加しているが天智天皇二年(663)八月白村江(はくすきのえ)の戦で唐の水軍に惨敗を喫し、朝鮮半島からの完全
撤退を余儀なくされた。
白村江(はくすきのえ)の敗戦後、天智天皇は庚午年籍の作成・近江令の制定など中央集権化に向け動き出し、壬
申の乱の勝利による天武天皇、その后(きさき)持統天皇による皇権力で律令国家は一応完成する。
地方支配に変化がある。国-評制の採用と施行である。
地方首長である国造は地方行政官の評造(こおりのみやっこ)-評督となり、国造制は廃止された。
各評は五〇戸を単位とし里(のち郷と改称)とし里長(郷長)が任命され、評を統括する国が制定された。安芸国の場
合は中央には直結せず、吉備・周防に派遣された総領の管轄下に置かれていた。
佐伯郡はこうして総領-評造-里長による地方支配体制の中に組み込まれた。

安芸国
八世紀になると中央集権化を一層進めた律令国家は、地方を国・郡・里(郷)にそれぞれ国司・郡司・里長を置く。
それまでの総領にかわり中央の官人が国司に任命され、国の支配に当った。
国はその大小により大・上・中・下国の等級に分け、都からの距離に応じ近・中・遠国の別に分けられた。
安芸国は上国・遠国に属した。国府(国衙 こくが)が政務を執り行い、平安時代以降、安芸国府は府中町に所在
していた。平安以前の奈良時代の安芸国府の存在は不詳である。

佐伯部と佐伯郡 さえきべ-さえきごおり
六世紀になると大和政権を構成する諸豪族が民衆を支配する部民制が成立し、身分秩序として氏制も成立した。
佐伯郡の起源は日本書紀・景行紀に「日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征より捕虜を連れ帰り、伊勢神宮に
献じたところ彼等の粗暴な振る舞いに手を焼き、朝廷に献ずるも、幾外の諸国に分かち置いた。播磨・讃岐・伊予・
安芸・阿波の佐伯部の祖である」。 大化前代の安芸国に佐伯部があり、国造の一族の佐伯直が管掌していた。
安芸の佐伯部は「さえぎ」 西からの侵冠 (しんこう・・・・他国土に攻め入り害をなすこと) を防御するために設け
られ、天平十年(738)の周防国正税帳に「安芸国佐伯団擬少毅榎本連音足」とあり、食稲 ( うか・・・稲・五穀の精
霊神(食稲霊神(うかのみたまのかみ)、食べ物の神からきている)・酒・塩を下用 (げよう・・・一般の人々の食用
とする、十分についてない米) し、正丁(二十一~六十歳の男) を一戸につき三丁に一人を徴発 (ちょうはつ・・・・・
強制的に人を呼び集めること) して、佐伯郡内の男は、兵士として軍団に配属されていることから、佐伯軍団が存
在していたことがわかる

国司には中央官人が任命されたことは先に触れたが、郡司は国造(くにのみやっこ)等旧来の在地の首長らが任
命された。十世紀初に編纂の延喜式(えんぎしき・・・平安中期の律令の施行細則。五〇巻。905年(延喜5)藤原
時平らが醍醐天皇の命により編纂を始め、時平の死後藤原忠平らにより927年完成。施行は967年。) によれば、
安芸国は沼田・賀茂・安芸・佐伯・山県・高宮・高田・沙田(ますだ・・・のち豊田と改称)八郡よりなる。平安後期に
は沼田・高宮は消滅した。しかし、佐伯郡の名称は中世に佐西・佐東郡に分かれた時期を除き、平成十七年
十一月三日宮島・大野町が廿日市市に編入し消滅するまでのおよそ千百年も続いたのである。
当時の佐伯郡は、広島の太田川から西の山口の県境の小瀬川に至る範囲であった。佐伯郡の初見は昭和三十
六年(1961)平城宮から出土した藤原宮出土木簡「安芸国佐伯郡雑腊二斗」である。雑腊とは「くさぐさのきたひ」
と読み魚や獣の乾し肉を指す。税として都に運ばれ荷札としてこの木簡が添付されており、中央の貴族等に食さ
れたと推定されている。

郡司と郡家  ぐんし-ぐんけ
里(郷)なる郡は大・上・中・下・小郡の五等級に分かれ、定員は決まっていた。
郡司は四等官制であり、郡政をつかさどる大領・小領と文書の作成等にあたる主政・主帳には階級差があった。
郡家は、郡の庁所で郡衙(ぐんが)ともいう。平安中期に国司の権限が強まり国衙機構が充実され、消滅する。
国衙の在庁官人の田所氏が三宅(広島市佐伯区五日市)に住んでいたことから、同五日市利松の郡橋附近に郡・
郡越など小名(こな・・・こあざともいう) 残っており、佐伯郡衙の所在地と比定(ひてい・・・・ある物が一定の物とし
て認められない場合、他の類似の物と比較して、その性質がどういうものであるかを判断すること。) される。

種箆郷
郡は、夫婦・親子・傍系親族など大家族の郷戸で、班田収授祖・庸・調などの税を負担する単位の戸 五十戸
を一里とする里の集合である。里を郷に改称し郷里制、その廃止、郷制への移行と、郡の単位には変遷がある。
承平年間(931~937) 源順編纂の「和名抄」によると、佐伯郡には、養我・種箆・緑井・若狭・伊福・桑原・海部・
噌濃・遠管・駅家・大町・土茂の十二郷ある。
廿日市に関係あるのは種箆で 「へら」 と読み、現在の「平良」に通じる

山陽道
律令国家が中央集権の支配をするにあたり、重要なことのひとつにインフラ整備がある。
インフラストラクチャー ・・・生産や生活の基盤を形成する構造物すなわち道路・港湾・発電所・通信施設などの
産業基盤、および学校・病院・公園などの社会福祉・環境施設などである。
当時は、京から諸国への主要官道の整備が急務であった。
官道は、東海・東山・北陸・山陽・山陰・南海・西海の七道である。
京と諸国を結ぶ政令の伝達等のため、官道沿いに整備された駅馬数の多少による大・中・小路の三等級の駅馬制
が敷かれた。 山陽道は、九州大宰府へ通じる七道唯一の大路であった。駅馬の数は二十頭、駅家周辺に駅馬数
の駅戸を設け馬の飼育・駅送業務が課せられた。
安芸国の駅家は、真良しんら・梨葉なしわ・都宇つう・鹿附かむつき・木綿ゆう・大山・荒山・安芸・伴部・大町
種箆へら・濃唹おおの・遠管おくだの十三駅である。

山陽道の駅家比定図
(廿日市町史 通史編(上) より)


律令制の変革 -王朝国家-
八世紀後半以降、在地にて班田農民の階層化が進み、租税負担に堪えかね口分田 (くぶんでん・・・律令制で、
班田収授法によって、六歳以上のすべての民に授けられた終身使用・用益を許された田。 良民男子は一人に
二段(約22アール)、女子はその三分の二。賤民のうち、官有の官戸・公奴婢(くぬひ)は良民と同額、私有の家
人・私奴婢は良民男子の三分の一が授けられた。) の耕作を放棄する者が増える一方、土地を財として成長
した富裕層が現われる。これら「力田の輩」は、困窮した農民に出挙(すいこ・・・高利貸し)や調・庸の税の肩代
わりを通じて隷属させ、また逃亡農民の口分田を獲得しつつ、大規模農業の経営を行い益々富を蓄財していく
のである。
九世紀後半になると、荒廃田は逃亡農民の増加等により目に余る状況となり、人別賦課の基本の戸籍もまっ
たく役に立たなくなり、律令制的な人民支配・租税収取に限界が生じたため従来の支配方式からの転換を余
儀なくされた。
十世紀のはじめごろ、時のリーダー藤原忠平 ((880-949)平安中期の廷臣。基経の子。諡号(しごう)は貞信公。
兄時平に次いで摂政、さらに関白となり、「延喜格」「延喜式」の撰修に加わり完成させた。) により人から土地
土地への課税方式への転換を図る。田図に耕作農民の名を冠して「名(みょう)」制度で賦課徴収しようとする
ものである。従来の国司は、地方行政に携わる者として中央からの監視の下に任国支配をしてきたが、国司
の任国支配権の拡大という国政改革により、中央は国司にあまり干渉せず、逆に検田権の委譲等裁量権の
大幅な拡大を成す。国司は、中央政府から支配権限の委任を受けた代わりに、当該国から中央への租税納
入を負担しなければならず、この頃、個別人身支配から土地課税への転換に伴って、従来からあった租庸調
正税・雑徭・交易物などの税目が消え、新たな税目(官物・臨時雑役)の中央への納入を義務づけられたの
である。
こうして国内支配に大きな権限を有する国司は、受領 (ずりょう・・・国司四等官のうち、在地官人として行政
責任を負う筆頭者の呼称) としてこれらの租税を中央へ納入する過程で、租税の一部を私財化し莫大な富を
築いていくのである。
永承三年(1048) 安芸守に任ぜられた中原師任(大外記だいげき)は、年米一万石・大筏二艘(いかだにそう)・
榑(くれ・・・材木)十万寸・雑穀八千石にも及んだという。
このような国政改革を経て出現した国家支配は「王朝国家」と呼ばれる。

三田郷の公的単位が私的譲渡へ
十一世紀半ば以降には、安芸国高田郡 (現 安芸高多市) の郡司 藤原守仲は、その子大掾(じょう)守満に
郡内の三田郷と別府重行名(みょう)を譲渡の対象とし、大領職(だいりょうしき)については、国司下向の際、改
めて補任を受けることを申し添えた譲り状をしたためている (-厳島文書-)
国司の権限が強化されるなか、郡司は郡全体を支配する権限を失い、郡の分割、また郡の下部単位の郷が
国衙の行政単位として独立する形式がとられた。藤原氏は、三田郷に屋敷を構えそこを重(住)郷としていたか
ら私的に譲渡可能となったのである。この論理は新興の在地領主に特有のものである。
次に別府重行名は住人が開発してきた私領田畠を買うなどして国衙の承認を受け郡・郷とは別の租税徴収単
位にして私領化された地なので別府とされる。
私領は国衙から認められた地域支配の単位である。地方豪族たちがその地域に住む農民から、国衙に納め
る租税( 官物(かんもつ)に一段ごとの 加地子(かじし)(段別5~10升程度の米)を加えた額を徴収できる範囲で、
その権利の持ち主を私領主という。
それまで公領の耕作とひきかえに納税を請け負ってきた農民(負名などと呼ばれた)の没落や耕作拒否などに
よって、公領が荒れはじめ財政も苦しくなりつつあったので、国衙には未墾地の私領化=官物の増収は願って
もないことであった。そのため税の一部免除、 独立した税の納入単位としての承認、 私有権の保証など、さま
ざまな特典をあたえてこれを奨励したのである。国衙の許可のもと、大規模に農民を開墾に動員しやすい立場
にあった国衙の役人( 在庁官人(ざいちょうかんじん)という) ・郡司・ 郷司 などであった。
こういった地方の役人などが、私領形成のための開発とその地を領有する許可書(これを本来別符べふという)
を国衙からもらって、その地を別符として支配するようになったのである
三田郷と別府重行名(みょう)は代々藤原氏に受け継がれていき、紆余曲折ののち、相伝の由緒を示す文書は
厳島神主佐伯景弘に渡る

佐東郡と佐西郡  さとうぐん-ささいぐん
郡郷制のあり方は、安芸国内でも郡によって違い、佐伯郡では、郷単位の分割はされず、方位によって佐東・
佐西郡に分割された。広島市西区己斐以西を佐西郡、安佐南区を中心とした佐東郡と二分した。

荘園公領制
律令国家の土地公有制が崩壊する過程で、個々の権門 (けんもん・・・位が高く権勢のある家柄) の財政を
維持する必要性から国家が私的領有を公認した荘園は八世紀から十六世紀まで、全国的な規模で存在した
私的大土地所有地をいう。その所有は京周辺に居住・所在する皇室・上級貴族・大寺社である。

安芸国の荘園
奈良西大寺領牛田荘
摂関家領・大崎荘
賀茂御祖社領都宇竹原荘
能美荘(のち八条院領)
安摩荘
可部荘
保延五年(1139)鳥羽院政期の寄進型荘園の急増
田門荘・支芳荘・吉田荘・延暦寺領大朝荘等ほか
十二世紀後半平氏の瀬戸内海域への進出にともない、平氏と関わりの深い荘園が生まれる。
三入荘・沼田荘・厳島社の荘園として廿日市平良荘・宮内荘
十二世紀の成立
阿土熊野保・世能荒山荘・入江保・高屋保・多治比保等の諸司領
「保(ほ)」とは、平安中期以降の、国衙(こくが)領内の行政単位で、荘・郷・名と並ぶもの。

国衙機構
公領は、国司が府中に所在する国衙の支配下に置く国衙領である。
十一から十二世紀にかけて国司に任命されても現地に赴かず在京を続け、政務は派遣した代官の「目代」に
委ね、得分のみを受け取る、国司遥任(こくしようにん・・・古代、国司に任命されながら任地に赴任せず、代わ
りの者(目代)を派遣して国務をとらせること。収益の獲得のみを図ったもので、一二世紀にはほぼ常態化した。)
が通例化した。これは、在地領主が居住地を中心とした領域を分割領有し、有力在地領主は在庁官人の地位を
得、国衙は従来郡の機能を奪い任国内行政の権力機構の整備・充実を図り、調所ずしょ・税所はいしょ・大帳所
だいちょうしょ・田所たどころ・政所まんどころ・検非違所けんぴいしょ・等の「所」の事務を担当した。
機構組織の変更とは名ばかりで、上位の役所が事務の効率化とか、地方への権限委譲とか大所高所に立った
良策を行うためではなく、いつの世にも官僚のエゴがはびこっている。

安芸国衙在庁官人 田所氏と厳島神社
田所氏の祖は、阿岐国造(あきくにのみやっこ)-飽速玉命(あきはやたまのみこと)が広島湾沿岸・島嶼部に居住し
た海人(あま)族の首長として、律令制以降は佐伯郡譜第郡司佐伯氏へと続き、この一族は厳島神を祖神とし、そ
の族長は厳島神社の神主となり、主な一族も神官として仕えた。この地方に大きな勢力を誇った佐伯氏の本流か
ら、ある時期分かれ、延喜年中(901~922)佐伯郡衙に近い五日市三宅附近に居住から安芸国府の所在する府
中に移り住み、国衙の在庁官人になった一派が田所氏である。
国衙田所(こくがたどころ)・・・土地台帳の作成・保管を業務とする役人を代々世襲する在庁官人で厳島神を共通
の祖神と仰ぐ田所氏の存在があったので、厳島神社は一宮(いちのみや)という安芸国一の社格を有するようにな
ったといえるであろう。

厳島神社の宮島(厳島)
厳島神社の縁起は、市杵島姫(いちきしまひめ)が西から紅の帆をはった船に乗って鎮座地を求めてやって来た
ときに、厳島を案内した地元の翁 佐伯鞍職(さえきのくらもと)が端正五年(推古天皇即位元年 593)創建と伝える。
今から約350年前、江戸時代のはじめ、寛永二十年(1643年)、江戸幕府の儒学者 林羅山の三男 林春斎
(1618~1680)が全国を行脚した「日本国事跡考」の中で「松島、此島之外有小島若干。殆如盆池月波之景、
境致之佳興丹後天橋立安芸厳島(宮島)、為三処奇観」と記し、松島、天橋立、宮島を「三処奇観」と評したの
に始まる日本三景の宮島。さらに平成八年(1996)世界遺産にも指定された。
廿日市の対岸に位置する古来 神の島と崇められ、幾多の歴史を刻んてきた宮島と廿日市は深い関係がある。

大川浦遺跡は宮島の中心地     △一部私見あり△
こんなセンセーショナルな新聞記事の見出しがある日踊っていた。
広島大大学院文学研究科の考古学研究室によると、厳島神社がある現在の島の中心地から約5キロ南西の
海岸にある宮島(廿日市市)西部の大川浦遺跡について「原始・古代以来、島の中心地だった」という。
(07/5/2 中国新聞)
縄文期前・中期の廿日市市地御前南町遺跡(はつかいちしじごぜんみなみまちいせき)-地御前-(前述) が宮島
の対岸にある。以前から、多々良潟等数箇所の海岸から縄文・弥生期の土器等が出土し、貝塚跡も確認されて
いる。そして今回三年前ごろに海岸で土器片が偶然見つかり、調査の結果今回人が住んでいた中心地の可能性
が確認されたのである。広島湾西部沿岸部は遺跡の存在が多数確認されており、規制のため、宮島での存在の
確認は遅きに失した感がある。
大川浦遺跡は、宮島と対岸の大野と最短距離にある大野瀬戸に面しており、干潮になればほんの数百メートル
になるので、大野との行き来も可能ではないかと推定できるのである。
想像だが、大野と宮島間の大野の瀬戸は、その昔陸続きであったのであろうか。ないしは、大野瀬戸が人の往来
が可能な浅瀬が続く時代があったのかも知れない。そんな時代であれば、海水による被害を被らない海辺より少
し上の高台に居住する事は可能であったであろう。想像はまだ続く。
台風など、天変地異が何度も宮島を襲い、大野の瀬戸の浅瀬も、海水による侵食などで、次第に海底が異変し、
今のような深水な瀬戸になったのではないだろうか。そうした変遷の過程で、瀬戸に面する宮島の海浜部は砂浜
などがほとんどない、急峻な崖となった。更に時代が進み、台風や海水の浸食により、また深山より流れ落ちる水
により、次第に現在のような海際に砂浜が出来たのでないかと。
居住が海際であれば、すぐに貝や魚が採れるので、便利だと考えれるが、安定した居住は、台風など風雨や海水
による浸水にも耐えられる少し小高い平地であり、近くに飲用水の確保がし易い小川がある場所が得やすい。
同じ瀬戸内海のほかの島では、段々畑など、耕作地の確保のためや、他の色々な理由で、人の手が加えられて
きた。一方、宮島は、往時から神の島と崇められてきた。このことが、厳島神社を中心とする宮島の西町東町
だけといっても過言ではない居住エリアだけの開発に終わらせていると考えられるのである。
全島が国立公園に指定され、弥山は国の天然記念物にも指定されており、規制が多く、可能性はあっても今まで
手付かずであったことが、今日まで発見につながっていないのである。昭和30~40年代宮島では、木を1本、石こ
ろ1ヶも採るな、原状より移動させるなと厳しく親や大人に云われ続けたことを思い出す。
これはとても良いことで、島内での自然破壊につながりかねないような遺跡の発掘は今後、これ以上立ち入れない
ような規制をすべきと考える。原状をそのまま未来へ継ぐ責務を持ち続けなければならない。

平清盛と厳島神社
-厳島佳景-  貝原益軒
厳島神社の創始者とされる佐伯鞍職(さえきのくらもと)は、この地域の豪族であった佐伯氏で、大化前の阿岐国造
(あきのくにのみやっこ)の祖 飽速玉姫(あきはやたまのみこと) の子孫といわれ、のちに律令制下の佐伯郡司の佐
伯氏の始祖ともいわれる。
延喜式(十世紀はじめ編纂)の神名帳には、速谷神社・多家神社(府中町)と式内社三座の一つに列し、古代におい
て伊都岐島神は安芸国を代表する有力な神であった。
寛仁元年(1017)中央政府が畿内七道諸国の有力神社に奉幣(ほうへい・・・神前に幣帛(へいはく 神前に供える
物の総称) を捧げること)を行なった際、安芸国で唯一伊都岐島が挙げられた。十一世紀 平安時代から十二世紀
にかけて行なわれた社格の一種である一宮制(いちのみやせい)であり、先に触れた安芸国衙在庁官人 田所氏
の影響が安芸国一宮の背景にあると思われる。
平清盛が安芸守に任ぜられたのは久安2年(1146)、29歳のときである。
瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげる清盛にとって厳島神社は日宋貿易航路の守護神でも
あり、信仰の面でも厳島神社を深く信仰したのである。
仁平3年(1153年)父・忠盛没後、高野山大塔の造営にあたり、清盛は1156年(保元6年)4月落慶供養の日に老
僧が現れ「越前の気比の宮は栄えたけれども、厳島はなきが如く荒れはてゝ候。このついでに奏聞して修理させ給
え、官加階は肩をならぶる人、天下にまたもあるまじきぞ」とて立たれけり。
老僧から安芸の厳島神社の造営をすれば官位昇進肩を並べる者天下に二人とあるまいとの予言をされた。
清盛は、永暦元年(1160)武士として初めて正三位の公卿に列せられると、宿願であった厳島神社に参詣し、その後
二十年間に十回の参詣をするほど熱烈な信仰であった。宿願であった厳島参詣を果たした清盛は、三十二巻の経
巻を長寛二年(1164)九月厳島神社に奉納した。これが国宝の「平家納経」である。

神主 佐伯景弘 さえきかげひろ
この人物なくして厳島神社の繁栄はなかったとも言える。
長寛二年(1164)の時点では、中央の官職で、宮中の掃除・儀式の会場設営等を司る掃部寮の三等官にあたる掃部允
(かもんのじょう) 正七位相当にあり、西国の一地方の神主たる景弘が中央の平清盛との絆(きずな)を強めていた。
バックに強力な時の権勢者の清盛が控えているのである。こうした清盛の家人的地位にある景弘は、在地領主に
とっては、己の支配の安定を図るため、一部は景弘を仲介として平氏にその所領を寄進したりするのである。
景弘の活躍により厳島神社の地位はますます上がっていった。治承四年(1180)三月、延暦寺等の猛反対を押し切り、
通例を破り、内大臣久我通親の高倉院厳島御幸記で知られる高倉上皇が譲位後初めて厳島参詣を強行された。
景弘は高倉御幸の際の勧賞(かんじょう・・・功労をほめて、官位や物品を与えること)により正五位下に官位昇進した。

厳島社領
時の主流は平氏は明らかで、その権勢に、安芸国の在地領主の中に清盛の信任厚い景弘に取り入ろうと、十二世紀
後半に入ると厳島神社にその所領を寄進する者が相次いだ。
山県郡内に志道原荘・寺原荘・三角野村壬生荘 (高倉天皇とその母春門院滋子(清盛義妹)祈祷料として立荘され在
地豪族凡氏一族が景弘を介して清盛へ所領寄進した)等の社領の成立により、内陸の荘園の年貢物資を荘園領主の
もとに送り届けるときは、水運に便利な倉敷地(中継保管地)まで運び出すので、太田川河口付近(安佐南区祇園)に倉
敷地が多く置かれた。志道原荘と壬生荘の倉敷地は佐東郡内坪井、堀立、萩原村に置かれ、社領の一部となした。
通常の荘園は厳島社の政所 (まんどころ・・・有力社家によって構成される社務執行機関 宮内に所在)の支配下に
置かれる。
佐伯郡の社領には平良荘・宮内荘・大竹・小方・川内・寺田・保井田・佐々利別府・石道村・久島郷・吉和村などがある。
これらの社領は、別結解名 (べっけちげみょう) と呼ばれる小規模な土地で、特定の社家によって領有される。
中世の年貢は、本年貢の所当(官物)とそれ以外の雑税の雑公事に分かれ、半不輸領では、所当(官物)を国衙に
公事は荘園領主に納めるのである。
この場合の社領は、国衙領としての位置づけにあるため、本年貢の所当と雑公事 (くじ・・・年貢以外の雑税と労役) を
合わせて国衙(こくが)に弁済するのではなく、所当は国衙(こくが)に弁済し、雑公事のみ社家が取得するのである。
いわゆる半不輸社領 (はんふゆしゃりょう)であった。不輸とは租税の納入を免除されることであるが、半不輸社領とは
国衙に納めるべき雑公事のみをを免除されるという意味で半不輸社領というのであり、税を免除されているわけでは
ない。

神主 佐伯景弘 安芸守に推挙
治承三年(1179)清盛は後白河の自分を無視する施策に遂に激怒し、十一月十四日、福原(現在の神戸)から軍勢を
率いて自ら上洛し、翌拾五日にクーデターを決行した。いわゆる治承三年の政変である。
清盛は関白・基房、権中納言・師家を手始めに、藤原師長など反平氏的とされた39名に及ぶ公卿・院近臣(貴族8名
殿上人・受領・検非違使など31名)を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官するのであるこれに対し、後白
河法王は恐れを覚えて清盛に許しを請うが、清盛はこれを許さず、十一月二十日には鳥羽殿に幽閉し、院政を中断さ
せた。こうして朝堂(ちょうどう・・・主が政治を執り、群臣に謁見する所)の運営は清盛の思うままとなり、一門の知行国
(ちぎょうこく・・・皇族・公家・寺社などに、特定の国を定めて、国司任免権やその国からの収益を与える制度)も増え、
平氏政権が誕生したといえる。しかし法皇を幽閉して政治の実権を握ったことは多くの反平氏勢力を生み出すことにな
る。その筆頭は後白河法皇の第2皇子以仁王(もちひとおう)である。
こうした周囲の反平氏勢力に対抗するため、社領支配の強化と安芸国内の武士を平氏に同調させ、軍事力を拡充・そ
の基盤の安定を目的にすべく、景弘を平氏地頭職に補任するのである。しかし高田郡の社領化が在庁の葉山頼宗を
中心とした抵抗があり、容易に進まず、治承三年に景弘を三田郷地頭職に補任する際にも反発が強く、軍事緊張の高
まりと共に、平氏の威圧をもって強引に推し進めた経緯がある。また壬生荘では凡氏一族が寄進した荘内の名の地頭
職に補任されていたが、その任を解き、壬生荘全体の地頭職に景弘を補任した。この措置がのちに平氏方に不利な状
況をつくることになるのである。
その後景弘は、中央の貴族が任じられると相場が決まっている安芸守に平氏の推挙で任じられた。地方の一神主にす
ればこれは極めて異例のことである。安芸国内の武士の掌握を断固図るという、平氏政権の強い意向が見られる人事
マネージメントである。このころの景弘は飛ぶ鳥を落とす勢いであった。

治承・寿永の内乱
こうした平氏の強引な措置に世の常多くの軋轢(あつれき)が生じ、中央で孤立化をしていった。治承四年八月源頼朝の
挙兵が諸国源氏の蜂起を生み治承・寿永の内乱が勃発する。
後白河法皇の第2皇子以仁王(もちひとおう)は、治承4年(1180年)4月、源頼政と共謀して平家追討の令旨(りょうじ・・・
律令制のもとで出された、皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出した文書) を全国に雌伏
(しふく・・・力を養いながら自分の活躍する機会をじっと待つこと) する源氏に発し、平家打倒の挙兵、武装蜂起を促した。
以仁王(もちひとおう)には源頼政・下河辺行義・矢田義清・源仲家などが付き従い、平氏に反発する興福寺・園城寺
(三井寺)もこの動きに同調した。しかし計画は未然に発覚、清盛により検非違使の藤原景高・藤原忠綱が300あまり
の兵で追撃して、以仁王と源頼政らを討ち取った。
ところが寺社勢力、特に園城寺と同じ天台宗で親平氏の延暦寺でも反平氏勢力の動きがあり、清盛は有力寺社に囲
まれ平氏にとって地勢的に不利になった京都を放棄せざるを得なくなり、、治承4年(1180年)6月、平氏の拠点である
国際貿易港の大輪田泊を望む福原(現在の兵庫県神戸市)への遷都を一門の反対を押し切り強行する。
翌治承5年(1181)になると平氏の勢力基盤である西国においても伊予の河野通清・河野通信父子、豊後の緒方惟能
・臼杵惟隆・佐賀惟憲ら豪族が挙兵し、さらに東国においても平氏方であった佐竹氏などが頼朝によって討伐されるな
ど、平氏方に反乱がいよいよ深刻化してくる。
元暦元年(1184)七月から八月にかけて備後に進攻していた源氏勢が安芸国への侵入をするが、その都度撃退する。
安芸国内でも平氏方はさらに深刻な状況となっていくのである。その要因は人事マネージメントの恨み・辛みである。
反平氏勢力の在庁の葉山頼宗が反平氏として立ち上がり、さらにかって平氏により壬生荘の地頭職を追われた凡氏
一族も源氏方に寝返ったのである。安芸国府周辺での源平両軍の激戦により、安芸国は源平方に制圧されてしまう。
文治元年(1185)三月二十四日のこと平氏は長門・壇ノ浦において海のもくずと消え去っていったのである。

その後の景弘
前安芸守景弘、厳島神主民部大輔景信 親子は降人(こうにん・・・降参した人)としてしたたかに生き延びるのである。
清盛の妻二位尼が、安徳天皇に三種の神器の一つ天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を持たせ共に入水し失われた。
この宝剣の捜索を朝廷の負託を受ける形で一年余以上費やすも、当の宝剣は発見できず、やがてうやむやになった
ようであるこうして景弘は、源平の争乱を政治的に巧みに生き延びたがため、厳島の威光は後世に引き継がれた。
もし景弘がここで終わるような事であったならば、厳島神社のその後は予想もできないのである。景弘が真骨頂を発
揮できるパワーはどうして生み出せるのかなぜそうさせるのか。敢えて推測するなら、厳島神の御加護か、景弘の
強い保身欲からくる政治力なのであろうか。しかしこれらを見据えた源頼朝の厳島神に対する崇拝の念からの寛大な
慈悲の心 (・・哀れむ心) を持ち合わせた頼朝の人格には、ただ々感服するのみである。

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