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 古刹 曹洞宗 洞雲寺




廿日市と宮島(厳島神社)の関係

  中世の廿日市は、厳島神社との深いかかわりの中で成立していったが室町時代
以降、神社に仕える神職の島内定住が進み、やがて商人や職人も居住する町屋が
形成されるようになると、宮島と廿日市の町は、あわせて「宮廿日市」といわれるよう
になる。厳島神社の造営修理を担当していた宮島の大願寺の番匠・鍛冶などの職人
も宮島と廿日市に分かれ住んでいた。
  宮島では春三月・秋九月に盛大に行われる法会(祭礼)に各地から多数の参詣者
が集まり、島内で市が立ち、博多や堺の商人が織物・薬などの高価な品が売られ、廿
日市では日常生活物資を中心とした交易が行われた。
こうして海を隔てた宮島と廿日市の町は、経済的に相互に関係を深めつつ一体となっ
て発展していったのである。切っても切れない関係であったのでこのたび宮島は広島
市ではなく、廿日市市と合併したのもこうした歴史がさせたのかもしれない。
 身近にある安芸の宮島といえば、日本三景のひとつに数えられています。
いつ頃から、日本三景と言われるようになったのでしょうか。
「日本三景」の言い表しは、
 今から約350年前、江戸時代のはじめ、寛永二十年(1643年)、江戸幕府の儒学者
林羅山の三男 林春斎(1618〜1680)が全国を行脚した「日本国事跡考」の中で「松島、
此島之外有小島若干。殆如盆池月波之景、境致之佳興丹後天橋立安芸厳島(宮島)、
為三処奇観」と記し、松島、天橋立、宮島を「三処奇観」と評したのに始まるという。
 中世の厳島は、信仰の島であると同時に瀬戸内海交通の要衝であった。
だから宮島を手中にしようと廿日市でも、桜尾城を中心とした戦があった。
その眠れる戦士の墓が洞雲寺にある。当時の廿日市は第一級の危険地帯であった
のである。 今の平和な町からは想像もできない。「三処奇観」と評判になって全国的
に「三処奇観」と評判になって全国的に知名度の上がった宮島に、さらに参詣者が増
えて、また商人が移住したりして経済・海上交通の要衝としての宮島はさらに発展し
ていった。もちろんわがふるさと廿日市の町も。
《廿日市締め》
 祝うてせーの・もひとつせーの・本決まりの


曹洞宗 洞雲寺


 
洞雲寺は桜尾城址の北、現在のJR廿日市駅の北にそびえる
極楽寺山麓南側に位置する曹洞宗の寺院。
長享元年(1487年)、今から520年前、厳島神社神主藤原教親
が、当時、西の京といわれて文化の中心であった周防の龍文寺の
金岡用兼禅師を招き開山した神主家の 菩提寺です。
境内には厳島神主家であった藤原氏一族と、藤原神主家が
滅んだあと桜尾城に関係した毛利家の桂元澄・毛利元清夫妻
及び厳島合戦で毛利元就に敗れた敗将の陶晴賢など廿日市市内で戦国時代の歴史上有名な侍の墓
が今でも残っている名刹なのです。
◆曹洞宗とは、1227年道元によって日本にもたらされた、臨済宗とならぶ禅宗の二大宗派。
◆周防とは、旧国名のひとつ。山口県南部・東部に相当。防州。
◆菩提寺とは、先祖代々の墓をおき、葬式や法事を行う寺。
◆名刹とは、由緒ある名高い寺のこと。
桜尾城に関係した戦国武将の葬られた墓がある。
友田興藤の墓
応仁元年(1467年)の応仁の乱、
世は正に戦国時代(室町)のまっさかり。
厳島神社神主家として、桜尾城主として
神領を支配するも、天文十年(1541年)
大内義隆との戦いに敗れ、城内にて自決。
鎌倉時代から続いてきた藤原神主家は
完全に絶える。それは466年前のこと。
この形式の墓を「宝筐印塔」という。
(2007年記)
桜尾城主であった藤原一族の墓群。
興藤の墓の後ろに葬られている。
教親・宗親・興親の墓もある
のだと思われる。
◆応仁の乱とは、1467年(応仁1)から11年間続いた内乱。
細川勝元と山名持豊(宗全)との対立に、将軍足利義政の跡継ぎ問題、斯波・
畠山両管領家の相続争いがからんで、諸国の守護大名が細川方の東軍と
山名方の西軍に分かれて戦った。
戦乱は地方に拡散し、戦国時代を現出。京都は荒廃し、以後幕府の権威は
失墜した。
陶晴賢の墓
毛利元就との厳島の合戦
に敗れた晴賢は、桜尾城で
首実検の後、洞雲寺に葬られた。

◆首実験とは、戦場で討ち取った敵
  の首を大将の前で面識者に見せ、
  その首の主を確認させたこと。
毛利元清の墓
桂元澄の次に桜尾城主
になった人物。
桂元澄 と夫人の墓
弘治元年(1555)厳島合戦で陶晴賢
に勝った毛利元就が桜尾城主と
する。
<廿日市町指定史跡>
桂元澄墓
元澄は毛利家の重臣より厳島合戦の前夜より
桜尾城主として所在に君臨すること十六年永禄
十二年卒す。後裔桂太郎城址を町に贈り、
以って桂公園としてのこす。
毛利元清夫妻墓
元就の四男元清は長府毛利家の遠祖なり。
初め備中 猿懸城主 穂田氏を嗣ぎ、
後、毛利氏に復す。元澄のあとを承け桜尾
城主となり経営すること二十九年、慶長二年
卒す。法名を洞雲寺笑山と号す。
              廿日市町教育委員会
◆ 板碑文の後裔「桂太郎」とは、1901年から1912年までの間に、
   第11代(5年)・第13代(3年)・第15代(1年)と総理大臣となった人物。
◆ 卒すとは、特に律令制における官僚の序列、四位・五位の人の死去をいう。
◆ 経営するとは、方針を定め、組織を整え目的を達成するよう持続的に事を行うこと。
◆ 号すとは、名付ける。

<旧 山 陽 道 行 程 記>
寛保二年(1742)    毛利家 絵図方 有馬喜三太作
(図説 廿日市の歴史より)
海に面した桜尾山に桜尾城はあった。岬の突端よりもう少し沖に離れた位置に現在の宮島街道があり、桜尾新開は相当規模の大きい埋め立てであったことがよくわかる。文久2年(1862年)とも明治二年(1869年)とも説があるが、半世紀かけて完成したとある。
上の絵図、桜尾城址の部分に注目すると、小高い山しか描かれていない。
その訳は、慶長五年(1600)関ヶ原の戦い後、毛利氏が防長へ転封 (領地の移し替え) になり、城としての役目を終えた桜尾城は、次第に荒廃していったと考えられ、寛保二年(1742)に有馬が絵図を描くころには、まったく城塞の痕跡が見られなかったので山しか描かなかったということだと思われる。


1 洞雲寺

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