宮 島 懐 古
ー小学生のころ経験した本当にあった話ー
宮島の七不思議の体験も
宮島懐古 | |
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宮島ホテルの火事 |
厳島神社の西、国民宿舎「杜の宿」の前身は宮島ホテルであった。 | |
広島の広島産業奨励館 現在の広島トームをを設計したチェコのヤン・レツル | |
が大正六年(1917)に設計・完成させた。外国人専用のホテルであつた。 | |
戦後はオーストラリア駐留軍が占有していたため、近づく事はできなかった。 |
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確か小学校三年生の夏、宮島警察署の裏の突堤で海水浴をしていた時、突 | |
然、半鐘が「カン・カン」と二回打ちで響き渡り、あわてて西の厳島神社の方を | |
見ると、大元公園の松並木の上に火柱が立っていた。 |
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宮島中学校の火事 |
小学校高学年だったと記憶しているが、自宅にいたある夜半鐘が「カン・カン・ | |
カン」と三回打ちで鳴るのが聴こえ、すぐさま外に出て東の方を見ると、通りの | |
正面の山の木々の上に真っ赤な炎がめらめらと立ち昇っていた。暗闇に浮か | |
ぶ炎の気味悪かったことを覚えている。翌日小学校へ登校するとき、中学校の | |
そばまで来るとプーンときな臭い匂いが漂っていた。職員室からの出火であった。 | |
金庫に入っていた現金(札)が束になって灰になっていたが、その状態を維持し、 | |
島内の銀行が後日換金をしたという話でもちきりであった。子供心に一つ知恵 | |
を学んだ。 |
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台風 |
現在は海岸は護岸工事で守られているが、テレビのない時代、五十年以上前の | |
宮島は台風が来るたびに商店街の冠水被害があった。現在の宮島郵便局の交 | |
差路から山側へは少し傾斜しており、現在の町屋通りでは、冠水したことはなか | |
った。 |
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山火事 |
特に秋のマツタケシーズンになると山火事が発生した。このときの半鐘で西・東 | |
の方角はわかっても、火の手が見えないので、ただ早く鎮火してくれと祈るだけ | |
であった。 |
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宮島ホテルの火災でオーストラリア駐留軍が撤退するまでの小学校低学年の時 |
覚えた英語は、ギブ ミー マネー、ギブ ミー チョコレート、チュウインガムであ | |
った。オーストラリアコインを貰っても使う術はなかったのでチョコ、ガムのほうが | |
嬉かった。 |
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傷痍軍人 |
アコーディオンを弾き、桟橋の前、三笠の浜、厳島神社の近辺でよく見かけた。 |
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小学校低学年時代の遊び |
パッチン・けん玉・ビー球・こま回し・山里でチャンバラごっこ・小遣い5円 |
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テレビのない時代 |
夏の楽しみのひとつは、大願寺境内で嵐勘十郎の鞍馬天狗、月形龍之介の水戸黄門、 | |
市川知恵蔵、大友龍之介(誤字があるかも)などの時代劇が子供心に印象に残っている。 |
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最近復活したのか、その昔、三笠の浜で櫓を組み、廻りを柵で囲って盆踊りが行われていた。 |
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大晦日の松明 |
十二月三十一日、親に作ってもらった松明を三笠の浜で、兄弟で担いだことがある。 |
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小学校低学年のとき宮島劇場で映画を鑑賞したことがある。 |
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花見 -元就軍勢が塔の岡の陶本陣を急襲した地- |
岩惣の東方方面にあった山里の開けていた平らな地で、四月三日ころ近所誘い逢わせて | |
花見をしていた。この地を谷が原とか? 呼称は忘れてしまったが今どうなっているのだろうか。 | |
この地は光明院にも近く、無論塔の岡にも近く、元就が弘治元年(1555)九月晦日夜、風雲急 | |
を告げる暴風雨の中、包ヶ浦に上陸し、博奕尾の尾根を越え翌十月朔日、塔の岡の陶軍の | |
本陣の背後にあたるこの地で待機、天明を待ち突撃した地なのである。 |
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町役場・警察署・郵便局・銀行2行・医院3・歯科医院1・(2:2だったかも)・産婆・連絡船2・ |
小学校1・中学校1・道路未舗装・神馬・肉屋1・電気店1・散髪屋(テリトリー内2)・ | |
スーパーなし・宮島劇場(昭和35年1960 廃止) |
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神馬 |
自分の知っている時代で二代目に当る神馬は、最初は栗ヶ毛が混ざっていた。先代よりは | |
何か物足りなさ、「品」がないと思っていた。子供心にこの神馬も白毛になるのか親によく尋 | |
ねていた。いつのころか時が経ち、いつの間にか白毛になっていた。 | |
確かこのあと三代目は現在の模型になったのではないのだろうか。(定かではない) |
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犬はいなかつた。・・・・いつの頃か犬禁止条例は廃止された。 |
今でもその時の犬に慣れていない後遺症で大型犬には恐怖心がある。 |
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墓はない。・・・・・対岸の赤碕の御室山か延命寺内 |
お彼岸・盆の時分には、祖母とよく連絡船に乗って赤崎の墓地三ヶ所の墓参りをした。 | |
最初に行くのは宮島口JR連絡船駅舎の西方 現在のコーラルホテルあたりの墓地であった。 | |
ブリキ製の水を入れた水桶とサカキを持ち、桶の重さに閉口し少々難儀しながら、年に数回 | |
対面する犬にヒビリながら祖母のうしろをついて行った。それから踏み切りを越え、山の斜面 | |
を中腹まで登り、二番目の墓地に行き、最後が曹洞宗 延命寺まで長い道のりを歩いて辿り | |
着くころには、心地よい疲れから、いつも托鉢修業中の小坊主の心境であった。 |
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孝義の人 誓眞さん |
宮島に関係のある平清盛入道・佐伯影弘・毛利元就・大内義隆・陶晴賢・尊海など数ある中で、 | |
誓眞さんの善行を親たちから教えられ、子供心に感動し、今でも「誓眞さん」を尊敬し続けてている。 | |
歴史に興味を持ち始めた昨年から、宮島には墓がないので捜し求め続け、執念でついに二ヶ所の | |
所在を突きとめた。またこの夏、誓眞さんの出自が伊予水軍・村上頼冬の末裔を確認した。 |