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往時を偲ぶ明治期からのふるさと廿日市
かっての懐かしい光景が今蘇る 懐古的Phot
忘れないため 記録に留める |
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◆郡役所 明治二十年十二月二十二日竣工 昭和四十六年中央公民館建設のため、明治の洋風建築の偉容を誇った元佐伯郡役 所庁舎は取り壊された。 |
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◆電話の開通 開通は、明治四十二年一月 現在の招魂社(しようこんしゃ) 前に局舎はあった。 当時、電話加入者宅の表札には電話番号が掲げられていた。 一番佐伯郡役所・二番西尾・三番桶ずしの大新・・・四十番位まであった。 |
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◆山陽鉄道の建設 山陽鉄道株式会社は、神戸から広島を徳山(現 周南市)まで延長するため、地御前 では観音堂山沖の漁港等を埋め、トンネルを掘り、鉄道用地とした。 着工は明治二十九年八月、開通は翌年九月。 |
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◆明治三十年開業の廿日市駅 国鉄の歴史は、明治五年東京新橋と神奈川横浜間の陸蒸気(おかじょうき)に始まる。 山陽線は山陽鉄道会社により明治三十四年五月に神戸-馬関(下関)の全線が開通。 廿日市駅は明治三十年九月二十五日に開業。広島以西で同時に横川・己斐・宮島・ 玖波・大竹・麻里布が開通、五日市は明治三十二年十二月、大野浦は大正八年三月 に開通する。 |
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◆廿日市の新名所 桜尾館 桜尾館は廿日市港東側の現在の中国醸造入り口一角を千余坪埋め立てた地にあった。 明治三十六年六月開業。潮湯の海水のむし風呂、いな池の養魚場、集会、保養と廿日 市の新名所となった桜尾館も大正五年に桜尾新開の再建工事により閉鎖されてしまった。 |
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◆桜尾山 厳島神社藤原神主家の居城であった桜尾城が慶長五年(1600年)関が原の戦後、毛利 氏が防長へ転封(領地の移し換え)になり、毛利氏支配の終焉に伴い、桜尾城は次第に 荒廃、広島藩の御建山 (おたてやま)なった。こうして承久三年(1221)鎌倉幕府御家人 藤原親実以来、約400年続いた桜尾城の幾多の歴史はここに静かに終わりを告げる。 沖に桜尾新開が築造されたのは文久二年(1862)。台風により明治期には7・17・33 年と幾度となく被害を受け、大正五年頃まで満潮時には浸水し、干潮時には烏帽子岩 が姿を見せ、なまこが取れたという。 |
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◆田尾の廿日市小学校 創立二十五年間は天神下の現 駐車常近。明治三十一年九月田尾の現 広電変電所 あたりに移転。大正十年高洲新開の現 広銀廿日市支店あたりの潮音寺川に沿ってい た。しかし昭和六年観光道路(現 宮島街道)建設のため、百b南側の現在地へ再移転。 |
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◆明治の葬列 明治三十六年常念寺の鐘楼から、材木町を葬列が高洲新開の焼場へ向かう野辺送りの 様子を写したもの。金持ちでも他家の野辺送りを務めておかないと来てもらえなかった。 |
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◆潮音寺 永禄九年(1566) 龍天上人開基のころは海浜の地で、寛文三年(1663)に潮音寺新開が高 洲新開の地先に出来て潮の音が聞かれなくなった。慶応元年(1865)最初の農兵隊、応変 隊が結成される。 |
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◆芸陽醤油 大正九年五日市・廿日市・原・宮内の醤油醸造業者が統合して設立。下平良の旧国道沿 いにハイカラな赤レンガの建物で有名であった。福山の三木醤油・呉醤油と県内三大醤油 として知れ渡っていた。大正十一年ごろ製氷事業をはじめ、夏の暑い日には、「芸陽まで 行って氷のカチ割りを貰ってくるか」と人気を博していた。昭和十二年に、明治四十二年 創業の家納喜酒造に変わる。平成十一年の火災に遭い、現在はスーパーになっている。 |
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◆自動車第一号 大正十年地御前神社前のフォードセダン。エンジンの始動は前面の冷却水タンクの下に クランクハンドルを差込み廻していた。この車は「丸子の自動車」という乗合自動車で佐 伯町・原方面に利用されていた。 |
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◆廿日市港 平安時代末期仁安三年(1168)厳島に平家一門の信仰をあつめた厳島神社が造営され、 その時廿日市から多くの工人や資材が行き来していたと考えられており、当時港があった ものと思われる。時代が下がり、南北朝期の応安四年(1371)今川貞世(いまがわさだよ・ りょうしゅん、武将・歌学者。俗名、貞世。了俊は法号)が九州探題(室町幕府が九州統治 のため設置した軍事的出先機関)として下向する途中、当時佐西の浦(ささいのうら)と呼ば れていた廿日市港に着いている。 文化元年(1804) 廿日市の問屋商人により廿日市湊に 埠頭・雁木等が造られ、千石船北前船も入津する港湾に整備された。 |
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◆新宮島連絡船 昭和六年広電宮島線が全線開通するまでは、厳島へ参詣するには、地御前から発着して いた。連絡船の発着場・新宮島桟橋は現在の国道2号と西広島バイパスの高架が合流する あたりにあった。広電は大正十四年に地御前までしか開通しておらず、新宮島桟橋まで一キ ロ余を自動車九銭で行っていた。第一・第二・第三宮島丸が四十分間隔で発着し宮島間拾 五銭であった(大正拾五年頃の米は一升三十五銭)。広電宮島線開通に伴い、連絡船は廃止 され、昭和四十八年に西広島バイパスの建設により、火立岩(ほたていわ・・・毛利元就が厳 島合戦で出立した地点)とともにその姿を消してしまう。 |
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◆火立岩と鰆浜 大正十二年ごろの絵葉書。火立岩(ほたていわ)は弘治元年(1555)毛利元就が厳島合戦の 時前線の本陣を築いた灰床山(はいとこやま)の東南麓の海辺にあり、管絃祭で船の提灯に 火をつける所から地名の由来がある。鰆浜(そうらんば)はここから厳島を眺めれば春には蜃 気楼が現れることもある天下一品の景勝地であった。平家の世に後白河法皇がここから眺 めたことから聖覧場(しょうらんば)と呼ばれ、訛って「そうらんば」となったという。 |
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◆速谷さん 大正十年ごろの速谷神社。厳島神社と同型の両部式鳥居がある。この社は、天湯津彦命 (あまのゆづひこのみこと)五世の孫の安芸の国造(くにのみやっこ)祖、飽速玉命(あきはや たまのみこと)を祭神とし、平安時代 延喜(901〜922)のころには安芸の一の宮という最高 の社格を誇っていた。中世以降は厳島神社の摂社となった。明治十三年十一月国幣中社 に昇格し、現在のもとができた。 |
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◆宮内電停と桜並木 広電宮島線が廿日市駅から地御前まで開通するのが大正十四年七月。藤掛尾山のトンネ ルを出たところに宮内停留所があった。市内が五銭、宮内己斐間の電車賃は二十二銭、一 円で八丁堀・新天地で映画を見て、プラス五十銭で映画と食事を楽しむことができたという。 昭和二十年春ごろ扇新開の旭兵器工場従業員の通勤の便のため、現在の地へ移転された。 |
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◆パラダイス 株式会社廿日市パラダイスは、北米風の大屋根がひときわ目を引く建物で廿日市港の住 吉社の土手下に大正十三年十二月に開業。プールで有名であった。当時あんぱんは一個 二銭、プールの使用料はきつねうどんと同じ五銭で、金銭感覚としては高く感じたという。 潮湯・大食堂が中心で現在のヘルスセンターのような施設で一日平均三百五十人くらいの 利用があり、広島、呉あたりからも訪れたいそう賑わったようであったという。 |
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◆徒弟学校 大正四年、佐伯郡立工業徒弟学校は桜尾山麓の西、元石州津和野藩御船屋敷跡に開校。 木工技術者を養成した徒弟学校はのち佐伯工業学校、廿日市工業学校、さらに現在地に 移転した県立廿日市高等学校に受け継がれ、昭和四十年ごろに工業科系は大野の宮島 工業に受け継がれていき、県立廿日市高等学校は普通科と夜間部のみに分離された。 |
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◆遊覧飛行 昭和八年から十六年ごろまで、地御前の下田尻の海岸に鼓ヶ浜航空学校と宮島航空研究 所があった。水上飛行機による航空士の養成と遊覧飛行を行っていた。遊覧料金五円、飛 行時間十五分、飛行距離往復四十キロで希望者は多かったという。太平洋戦争の戦局悪 化と共に閉鎖された。 |
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◆生糸の佐伯社 明治以来養蚕が換金作物として奨励され、大正期には佐伯郡内の繭(まゆ)の生産は飛 躍的に伸び産業組合法に基づいた佐伯社が郡内養蚕家を中心に創立され、大竹の由 見村で製糸工場を稼動。その後経営が破綻したのち、昭和十年高洲新開に新工場を建 設、十二年から創業を開始、順調な経営が続いたが、日中戦争により生糸の輸出が不振 振となり、十五年に操業停止、十七年に広島醤油に譲渡し、佐伯社は解散した。この写真 は昭和十六年当時河愛川左岸から東方の休業中の工場の様子を写した光景である。 |
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◆紙芝居 戦前からはじまり、戦後昭和二十年代から三十年代iにかけて、白黒TVが町の電気店で 大相撲(吉葉山・鏡里・千代の富士・栃錦等)・プロレス(力道山・グレート東郷等)を黒山の 人だかりの中見始めるまで、一番の楽しみは紙芝居であったように思う。当時の子供た ちのほかの楽しみはけん玉・パッチン・ビー球・チャンバラごっこなどであった。戦後宮島 では、拍子木を打ち鳴らしす音が聞こえてくると家の中にいた子供たちは手に5円か10円? を握り締め、紙芝居をする場所まで小走りに急いだものである。練りあめをしゃぶりながら何 話か前回のつづきを耳をすまして聞き入ったものである。TVが一般的に地方で普及したの は、現在の天皇が皇太子の時結婚する昭和三十四年(1959)四月宮中から東宮御所まで のパレードをTV中継で観る為であった。そして昭和三十九年(1964)十月十日東京オリンピ ックが開催されることになり、TVの普及に一段と拍車がかかった。静止の画像という紙芝居 に対し、動く画像は当時子供のみならず大人にも驚異であったのである。こうして紙芝居は いつの日頃か町から消え去ってしまったのである。 |
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◆藤掛山と串戸港 藤掛尾山は現在の木材港から西広島バイパスへ高架がかかっている所で、中世厳島神主 職継承争いなどで藤掛尾城があった。海に突き出た四十b位の絶壁からなる要害で桜尾城 の西の守りの要であった。神主家の一族小方加賀守の居城であったという。昭和五十七年 ごろ藤掛ハイツ宅地造成のためと道路建設のため掘削された。串戸港は郡内の山間部から 積み出される材木・木炭、広島藩家老上田家給地村の年貢米の積み出しに便利であった。 写真は大正十四年頃で、昭和三十年代まで九州の炭鉱で使う坑木、宮島細工の原木、家 具材等が出荷され、港周辺には多くの材木商があった。 平成17年(2007)9月23日(日)午後8時から初めて開催されたはつかいち商店街活性化花火 大会はこの串戸港の沖に浮かぶ台船から七千発が時折激しい雨が降ったり止んだりする中 夏の最後を惜しむかのように華々しく打ち上げられた。圧巻は最後に打ち上げられた二尺玉 三発。五百bの大輪を夜空に一瞬の花を咲かした。 宮島・宇品に継ぐ夏の夜の最後を飾る四万人以上の人出で感動の花火大会であった。 |
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◆廿日市のはりこ はりこは、大津屋(大島家)が三百年以上に渡り制作されている紙の面である。木型・紙張 りと数十行程を経て制作され、悪魔・災難よけ・神楽・祝いの贈り物に利用されていた。 平成元年(1989)廿日市市重要文化財に指定され後世にその技術が伝え継がれることに なった。 |
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◆天神の秋祭り 天満宮・新宮神社・大歳神社の三体の神輿(みこし)が町内を巡り新宮神社へ参り天満宮へ 帰還する。行列の先頭には奴が毛槍(けやり・・・さやに鳥の羽毛をつけて飾りとした儀仗用 の槍)を二組同士が投げあいながら振り歩き、そのうしろ二神輿・神職・御伴と続く。 平成の世の様子についてはこちら |
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◆寒行 のうまくさん 篠尾山正覚院(ささおやま しょうがくいん) 行者堂の祭りで火伏せと無病息災を祈願する小 寒の入りから三日間行われる行事である。町内の子供は一生に一回は参加するものとさ れていた。参加者は正月より井戸水をかぶり身を清め、素足にわらじという本人以上に見 ている方が寒くなるようないでたちで夜西の可愛川を堰きとめたみそぎ場で身を清め祈願 する。二日目は対岸の宮島へ渡海し弥山へ登り諸社に参り、夜また可愛川で身を清め、三 日目には極楽寺山へ登り参拝するという大変厳しい行事であった。宮島で子供のころほら 貝の鳴る音に何事かとはせ参じると昔かめ福のあった前の雁木から冷たい海の中に入り 寒中水泳をしていた老若男の一団を見物したことを思い出した。これがのうまくさんであった。 |
参考文献 昭和55年発行 『ふるさとの写真集」 編集廿日市町教育委員会より抜粋・加工 |