桜尾城と厳島神社神主家 

 ー神主家の居城ー


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桜尾城と厳島神社神主家
-神主家の居城-
 廿日市高校の前にたたずむ、春の桜の名所のひとつでしかないような小高い山。
それが廿日市市民に親しまれている憩いの場桂公園、またの名・桜尾城址です。
ここは郷土の史跡のシンボル(象徴)の場と言っても言い過ぎではありません。
それは対岸の世界遺産・日本三景の宮島ととっても深い関係があるからです。

桜尾城はいつごろできたのか。江戸時代に廣島藩で編纂された「芸藩通志」には
桜尾城は鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟 範頼の子孫である吉見氏が築いたとある。
しかしいつごろできたのかはわからない。
厳島神社社殿の創建は推古天皇即位元年(593)に佐伯鞍職によると伝えられる。
平氏は伊勢の国の武士で、忠盛の子平清盛が久安二年(1146)安芸の守に任官し、
厳島神社を信仰するようになり、安芸の国の留守役の佐伯氏が厳島神社の神主と
佐伯郡司を兼ねていたので、平氏と厳島神社の関係はより深くなっていった。
神主 佐伯影弘の時代隆盛を極め、仁安三年(1168年)現在のような原型ができ、
こうした中、社格も上がり、平良の庄 (もとの種箆郷) も厳島神社の社領となる。
こうして平家一門の崇拝により、厳島神社の社運は盛大となっていった。
往時より厳島神社神主職は、佐伯氏が世襲していたのです。

文治元年(1185年)壇ノ浦の合戦で平家が滅亡したことは、歴史上大きな変革とな
り、神主 佐伯氏の勢力も衰退し、厳島神社は承元元年(1207年)に続き、貞応二
年(1223年)二度目の火災後は、12年もの間神社の再建ができなかった。
そこで鎌倉幕府の御家人で周防の守護職であった藤原親実が神主職に補任され、
親実は神主職 (承久三年(1221年) と安芸国守護職 (文暦二年(1235年)を兼ね、
仁治二年(1241)七月十七日遷宮の運びとなり、厳島神社は仁安三年(1168年)
佐伯景弘によって建立された七十三年の後、二度の火災からようやく再建する
ことができた。
 藤原親実の子孫は神主職を世襲し、承久の乱のあった承久三年(1221年)から天
文十年(1541年)4月5日友田興藤が桜尾城に火をつけ自決し、大内義隆により亡
びる(藤原神主家の滅亡)まで、三百二十年ばかり厳島神社の神主としてまたその
神領地の支配のため、その本拠を桜尾城に置いていた。

ところでなぜ神主職が佐伯氏から藤原親実に突然代わることになったのか。
承久三年(1221)の承久の乱で安芸方面の豪族で京方の後鳥羽上皇に味方し、
負けた故に、東国武士を中心に樹立された鎌倉幕府による御家人を含む京方の
西国武士が多数粛清、追放された。その所領は没収され、鎌倉幕府から地頭
があらたに任命されて入ってきたと考えられている。
佐伯一族の中に京方に味方したものがあって、その罪に問われ、「異姓の他人
をもって神主となすべからず」とされた神主佐伯氏の伝統の規範が破られ、鎌
倉の御家人である親実に神主職が与えられたのではないかと考えられている。
こうして藤原氏神主家は、桜尾城を居城とした第一歩が始まったのです。
しかし神社祭祀の実権は旧来からこの地の豪族である佐伯氏一族が継承する。

廿日市が戦場と仮した厳島神主家争い
応仁の乱(室町期京都を舞台とし諸国の大名が東西二派に別れての11年続いた
内乱)後、大内氏の安芸への影響力はますます増大し、かって反大内の武田氏や
有力国人も次第に大内氏勢力下に入るようになった。
こうしたなかで、明応二年(1493)に管領細川政元により将軍の地位を追われた
足利義稙 (義材→義尹→義稙と改名)が明応八年(1499)大内氏を頼って周防(山口)
へ下向した。大内義興は上洛の機会を伺い、永正四年(1507)六月細川政元が
家臣に殺され、細川氏内部の分裂が深まると、同年十一月義稙を奉じて(たてまつ
る)山口を出発し、翌五年六月安芸の国人のほとんどを率いて京都に入った。
この時の神主藤原興親は、毛利氏一族の長屋氏の出で神主家の養子となった
教親の子であるが、兄宗親が本家長屋氏を相続したため、明応二年以降宗親の
あと神主に就任した。悲しいことに永正五年(1508)十二月八日京都において病死
してしまった。この興親の死が神主の跡目を巡る争いのドラマの始まりとなった。

興親の死後、随行していた友田興藤、小方加賀守はそのまま在京したが、国元に
残った神領衆が東方と西方に分裂して争いが始まった。
桜尾城に立て籠もった興藤派の東方は五日市の宍戸治部少輔らで、草津の羽仁氏、
大聖院座主、上卿、児玉治部丞ら厳島に住む「島中衆」らが加わっていた。
対する西方は新里若狭守らが、藤掛尾城に立て籠もり、己斐城、大野河内城などが
拠点であった。東の武田、西の大内を意識した神主の跡目争いは数年間に及んだ。
数年間に及ぶ東西に分かれた神領衆の分裂抗争は、大内義興に従って上洛して
いた武田元繁が義興から出された帰国許可により、様相が一変する。
帰国に際し、義興は京都の公家飛鳥井氏の娘を自分の養女とした上で元繁の妻と
したが、帰国後まもなく元繁はこの妻を離別し、大内氏に公然と敵対して佐西郡に
討ち入ったのである。永正十四年(1517)十月二十二日に有田合戦で毛利元就と
戦って敗死した。それから厳島の座主らの西方への寝返りや厳島の争奪戦など
があり、神領衆の分裂抗争は次第に膠着状態に陥った。

大内義興の神領直接支配
こうした状況の中、永正十五年(1518)に大内義興が帰国すると、義興に従っていた
友田興藤、小方加賀守も国元に帰り、ともに神主職に補任されることを望み、義興
に愁訴した。しかし義興は愁訴を退け、神主を置かず神領を自己の支配下に収め
ることにした。これは将来の武田氏攻略への布石であった。
武田氏との最前線になる己斐城に内藤孫六、石内 水晶城に杉甲斐守。そして
歴代神主の居城であった桜尾城に嶋田越中守を、のちに大藤加賀守、毛利下野
守を城番とした。こうして神領直接支配の体制を強化した大内義興は、陶興房を
大将とする大軍を安芸に派遣し武田氏への攻勢を開始した。
大永二年三月佐藤藤丸(現在地不詳)に本陣を置き、合戦に及んだが武田方の防
衛線は突破できず、八月になり陶興房は帰国した。

友田興藤の挙兵
京都で亡くなった興親と従兄弟であった興藤は、大内義興上洛中に陶隆房ととも
に連歌会を興行するなど、大内氏との関係も深く、自他ともに認める神主職継承の
有力候補であると思っていただけに、先の義興の裁定には大いに不満があった。
さらに神領衆も大内氏による神領直接支配には反発を強めていただけに、神領衆
の多くが興藤の挙兵を支持した。一方、このような興藤、神領衆の動きは、大内氏
側でも事前に察知しており、大永三年(1523)閏三月ごろ、桜尾城の防備を固める
ために、長崎弥八郎にも登城を命じた。ついに同年四月十一日、友田興藤は大内
氏に反旗をひるがえし、桜尾城番の大藤加賀守、己斐城番の内藤孫六は追放され
水晶城の杉甲斐守は、廿日市後小路(光明寺前の通り)にて武田方に討たれた。
こうして武田光和らの後援を得て桜尾城へ入り、友田興藤は自ら神主と称した。

大内氏の反撃
大永三年(1523)六月、安芸に侵入した出雲の尼子経久は、毛利・吉川氏などを従
えて大内氏の拠点鏡山城を攻略する。大内氏の反撃は同年八月ごろより開始され
る。八月一日弘中武長の警固衆が周防遠崎(現在柳井市)を出帆、同じころ陶興房
も陸路安芸に向けて出発し、八月五日土毛田(かっての佐伯町友田)で興藤方と戦
い、大野の門山に本陣を置いた。警固船は八月十八日に厳島に押し寄せ、興藤
方の番衆を追放し島を占領、九月十七日には廿日市、能美、江田島へも押し寄せ、
十月三日には厳島へ来襲した興藤方の警固船を撃退し、十一月一日には厳島か
ら五日市を襲って放火している。
一方、陸上では大内方の石道の小幡氏が武田勢に攻められ、城を開いて三宅(五日
市)の円明寺において切腹。両軍膠着状態のまま年が明け、大永四年(1524)五月
戦況は一変する。大内義興、義隆父子が安芸に出陣して厳島の勝山に本陣を置き、
陶興房は岩戸山に、吉見・杉・内藤氏らは天神山篠尾に陣を置いて桜尾城を包囲
し、弘中武長の警固船が海上を封鎖したため、桜尾城は完全に孤立状態になった。

桜尾城の攻防戦
桜尾城を取り囲んでいた大内勢は、七月三日桜尾城に攻撃を仕掛け大内方の斉藤
高利は矢疵を負った。厳島の勝山城にいた大内義興は、日々渡海して桜尾城の戦
況を見ていた。
大内方による桜尾城攻撃が本格的に開始されるのは七月二十四日のことである。
陶勢が二の丸まで攻めながら十人ばかり討ち死にして撤退。
翌二十五日仁保らが北面虎口水之手を攻撃。城内の糸賀平左衛門慰は、大内
方の勝屋氏を登小口の堀で討ち取っている。虎口は防御を固めた城の出入り口、
水之手は城内の用水のこと。登小口は登り坂の城への入口。
二十九日城内の用水を絶つ目的で城の北側にあった井戸を守る廓 (囲い)を再び
攻撃している。
堀や堅固な出入り口で桜尾城内への突入を阻み、城内から笛や太鼓で囃したてて、
矢や礫(投げつける小石)で反撃する興藤方に、攻めあぐねた大内方は講和の仲介
を吉見頼興に依頼する。興藤としても、武田氏や尼子氏の救援が望めないまま、
篭城 (城にたてこもって敵を防ぐこと。)を続けるには限界があるため、講和に応じる
ことになる。講和の条件は興藤が神主の地位から退くかわりに、興藤の兄の子・
籐太郎を神主とすることを大内義興が承認することであった。思惑の一致した両
者は、十月十日籐太郎が厳島に渡り、大内義興に対面したことで、講和は正式に
成立した。その後神主籐太郎(兼藤)は病死したため、興藤の弟四郎を掃部頭広
就と名乗らせて神主とし、享禄元年(1528)大内義興が病のため山口へ帰国する
直前の八月二十日広就は義興と対面した。山口へ帰国後義興は十二月二十日
に死去し、義隆がその跡を継いだ。
大内義隆は北九州における少弐・大友氏との対決が続き、しばらくの間、大内氏
の安芸経略 (四方の敵地を平定し、天下を治めること。) は見られなくなった。
大内義興死後、友田興藤は神領の実権を握り、思うがまま治めていた。
陶興房(隆房(晴賢)の父)は代替わりの挨拶に参上するよう使者を桜尾城の
広就に送り、享禄三年(1530)十二月十三日広就は、厳島より山口に下向して義隆
に対面し、二十八日に桜尾城に帰った。

安芸武田氏と毛利元就
天文九年(1540)六月九日安芸金山城で武田光和は病死し、安芸武田氏断絶。
安芸の毛利元就は、はじめ出雲の尼子氏に従属していたが、天文6年(1537)
に尼子家当主・経久が隠居、家督を孫の晴久(詮久)に譲ると、従属先を周防の
大内氏へと替え、その支援を受けて芸備北部に勢力を拡張していった。
これに憤った晴久は天文9年(1540)6月、元就を討つため、元就の居城・吉田
郡山城攻めを決める。

友田興藤 再び挙兵
九月四日出雲の尼子晴久が、吉田の郡山城を包囲したとの報に、友田興藤は、
大永三年(1523)に続いて再び大内氏に反旗をひるがえし、天文十年(1541)一月
十二日村上水軍の警固船二十〜三十隻で厳島を占領し、厳島社政所宍戸氏が
大内勢を追放した。ところが、翌日一月十三日、吉田で宮崎長尾の合戦で尼子
軍が敗れたことを知らない興藤は、大内勢が厳島に放置した兵糧を村上水軍の
警固船に支給するなど戦勝気分に浸っていた。しかし十五日に黒河隆尚を大将
とする大内方警固船二百〜三百隻が厳島を襲い、村上水軍を追い払い厳島を
占拠した。陸上においても大内方は攻勢を開始、天文十年(1541)三月九日、十
九日と藤掛で興藤方と交戦、大内義隆自身も三月十八日に岩国から大野の門
山に本陣を移し、二十三日にはさらに七尾に進んで桜尾城を包囲する作戦にで
た。前回 (大永三年四月〜四年五月)の籠城戦と異なり、今回は様相が違うこと
を、また神領衆の心の内を興藤は見抜けていなかったようである。

戦乱の世の常、戦に負ければ死あるのみ。生き延びるためには、勝ち戦でなけ
ればならない。今回の情勢は興藤方に不利と判断した興藤に従属していた神領
衆羽仁、野坂、熊野氏らは、興藤を見限り、四月五日夜半(よなか)、大将への忠
義をかなぐり捨て、戦わずして一斉に桜尾城を抜け出した。我一人と気づいたが
すでに遅し、興藤は城に火を放ち切腹をした。神主の広就はというと栗栖氏に伴
われて城を抜け出し五日市城に入ったが、翌六日には五日市城も大内方に包囲
されたため、五日市城主宍戸弥七郎は神主の広就を説得し切腹させて、大内方
に降伏した。時まさに天文十年(1541)四月六日。承久三年(1221)藤原親実が
鎌倉より神主職に任ぜられて以来三百二十年にわたり神主職を世襲し、厳島
神社神領、佐西郡を支配してきた藤原氏神主家はついに滅亡したのです。

藤原神主家滅亡・大内氏桜尾城支配
天文十年(1541年4月5日)友田興藤が自決するとき桜尾城に火をつけ、城は焼失
し、藤原氏神主家滅亡後、桜尾城は大内氏の支配に入った。同年十一月二十日
杉刑部少輔隆真(影教)が神主に任命され、十二月二十三日、三十〜四十人で厳島
に行ったが、社家などの勢力が強くて、追い返されたほどの権力のない名ばかりの
神主であった。神主影教はやむを得ず能島(愛媛県)に在城していた。 
大内氏は、桜尾城に鷲頭治部少輔ほかを置き、さらに銀山城、八木城、己斐城、
草津城にも置き、佐西郡の支配に当った。

陶隆房が陶家の当主となったのが天文九年(1540)、二十歳のときであり、尼子軍に
居城の安芸郡山城を攻められた毛利元就から援軍の要請があったとき、自重論が
支配的な軍儀の席で、「大内に服属した毛利を救わねば名文がたちませぬ」と主張
した隆房は自軍だけで初陣として出陣し尼子軍を追い返した。
大内家の重臣の地位を占めるようになった隆房ではあったが、大内義隆が新参の
相良武任を重用しはじめたことで、状況が一変する。大内家家臣内に文治派と武断
派の対立が生まれ、武力闘争にまで発展しかけたが、隆房を恐れた相良武任は逐
電 (逃げて姿をかくすこと。) した。 しかし固い絆に結ばれていた主従の義隆と隆房
の溝はますます深くなっていくばかりであった。

陶晴賢 主君大内義隆に謀反の企み
天文十九年(1550)陶隆房は、主君大内義隆を廃し大友晴英擁立を企み、毛利元就に
援助を請うたが、慎重な元就は隆房の命に従いながらも、せっせと自領を増やしなが 
ら、その間、逆スパイや贋の手紙まで使って「陶家の有力武将江良興房が裏切って
いる」とでっちあげ、隆房に殺させるのに成功している。
このことから、元就は晴賢に対峙する決意を完全に固めたようで、晴賢の知略家家臣
江良興房にいずれ脅威を感じる人物だとして敵将晴賢の家臣の切り崩しをはかったの
である。
晴賢は謀反の前に元就に命じ、天文二十年(1551)八月二十日桜尾城に使者を派遣し、
大内氏家臣鷲頭治部少輔らに城を明渡させた。鷲頭は山口に下向した。
桜尾城を接収した陶隆房は江良房栄を桜尾城番とし神領を支配させ、本丸に毛利
与三、二の丸に新里、己斐らを配し防備を固めた。
ついに来るべき時が来た。鷲頭氏城明渡し十日余後の九月一日ついに陶隆房は、大寧
寺(長門市)で主君大内義隆を討った。毛利元就は陶勢の津和野城攻撃中の天文二十三
年(1554)五月大内義長、隆房改め陶晴賢と断絶した。

晴賢・元就 厳島合戦に臨む
五月十二日毛利元就は陶方の城攻略のため、二千余騎を従え銀山城、八木城
など城番に城を明渡させ、洞雲寺に入り、桜尾城に立て篭もる江良氏ほかに城
を明渡させ、また厳島を守備していた陶方の深町を島から追い出し、島を占拠した。
弘治元年(1555)厳島合戦では、桜尾城は毛利軍の本陣となり、陶晴賢に勝利
した毛利元就は桜尾城で凱旋式と陶晴賢の首実検を行った。
厳島合戦後、毛利氏重臣桂元澄が桜尾城主となり、永禄十二年(1569)
毛利元就の子毛利元清、秀元と続いた。

当時にちなんで、大正から昭和の時代に桜尾城址で行われていた凱旋式のようす。
                 貴重な写真です
         「佐伯郡志」大正七年刊 251n より抜粋


戦国の世の重要な儀式

軍師の役割と作法
軍師は中国の兵法書「孫子」「呉子」「司馬法」「尉繚子」「六韜」「三略」
「李衛公問対」の武経七書」に通じ、臨機応変な策を武将に進言できな
くてはならず、さらに重要なことは、戦の日の天候を読むことであった。
これから書かれていることは、かって、幾多の戦で執り行われていた
血なまぐさく、気味悪く、少々怖い ?? かも知れませんが、現実から眼を
そらさず受け止めてください。  戦争は不幸の始まりで、おろかなこと
であることをぜひ知って欲しいのです。
いま立っているこの桜尾城址でも、466年前に同じようなことが実際に
あったのです。

首実検の作法
戦に勝ったときの「勝ち鬨」の挙げ方にも、軍師の知識が必要とされた。
勝ち鬨とは、戦いに勝ったときあげる鬨の声で、鬨とは、合戦で、兵士
の士気を鼓舞し、敵に対して戦闘の開始を告げるために発する叫び声
です。
首実検は凱旋後の論功行賞だけではなく、同じ戦場で戦った相手へ
敬意を表す場でもあっが、戦で幾多の兵士の死体を見ている武将で
あっても、死者の怨霊に祟られることが怖く、怨霊を封じる宗教的な
儀式も軍師が執り行った。
取ってきた首は、敵の名と自分の名を書いた「首札」を髷に結び、酒
で洗って化粧をしたのちに首実検に供する。
首実検では、供する役目の者が首を首板二置き、右手で髷をつかみ、
左手で首板の下から受けて大将の前面に出る。
首板を地面に置き、左手の親指を左耳に入れ、残りの指で顎を支え、
右手は首の右頬から顎にかけて少し仰向け、多少左へ傾けて首の
右側を大将に見せる。
奏者が「○○の討ち取りましたる□□の首」と謳うと、大将は床机から
立ち上がり斜めに構え、右手に弓杖をつき、左手を太刀の柄を握って
少し抜きかけて、左の目尻で首を見て「よしっ」と声を掛ける。
首を供する者は、一礼して首板を抱いて引き下がる。
大将がする敵の大将・高位の人の首実検を 「対面」 という。
者頭(武家の家老)や奉行級の騎馬の侍の首を 「実検」 するという。
地位の低い者の首は 「見知る」 といった。
討ち取った敵の首を持ち帰ること 主人の首を敵の手に渡らぬように斬り
は、戦場で働いた証拠の品であり 取り、采配とともに持ち帰る家来。
論功行賞に不可欠であった。

首実検をする大将の様子

軍師・首実検の項は
「名将を支えた軍師たち 歴史雑学研究学会」より引用



1 廿日市のシンボル 桜尾城址

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