親鸞の遺骨に関する江戸期の墨書発見


常楽寺

 常楽寺は、親鸞の娘覚信尼(かくしんに)の孫で北陸・関東・奥州に布教、親鸞の本廟を本願寺とし、教団の基礎を確定した本願寺第3世覚如宗主(かくにょそうしゅ)の嫡男である存覚上人(ぞんかくしょうにん)が、北朝・貞治(じょうじ)2年(1363)2月当国行化(ぎょうけ・・・・修行と教化)の際、豊島庄(現在の池田市北轟木あたり)に、一宇(いちう・・・建物)を建立されたのが始まりである。
当時、山門の前には「下馬札(げばふだ)」が立てられ、いかなる大名といえども馬に乗ったまま通り過ぎる事はできなかった。

応安7年(1374)、存覚上人より二代巧覚上人、豊嶋坊を再建。
嘉吉元年(1441)、堂宇再再建。
寛正3年(1462)、4世空覚上人刀根山坊再建。
その後大破に及び、
享保14年(1729)7月、13世寂恵上人再建。
その後、文政10年(1827)3月、20世本憶上人再改築。


安芸国の浄土真宗

安芸国での浄土真宗は、鎌倉時代末期の元応(げんおう)2年(1320)相模の最宝寺明光
後地方の福山市沼隈町中山南(なかさんな)に建立した光照寺が県内最古である。
本願寺第三代宗主覚如上人の長男、存覚上人がこの地で布教されたこともあり、その後
芸備地方に広まっていった。
1397年(応永4年)に小早川春平が愚中禅師を迎えて建立した臨済宗の仏通寺が備後の三原にある関
係から浄土真宗の伝播は県北部への広まりであったようである。
石山本願寺の戦で織田軍と闘うなど毛利氏の保護の下勢力を拡大、江戸時代になると宗義論争「三業
惑乱」など安芸門徒に支持された寺院・僧侶の活発な動きがあった。


中国新聞 朝刊記事 2007/9/19付

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