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重氏と「龍の駒」 (しげうじ と たつのこま) |
むかし、山代の阿賀(美和のあか)に佐伯重氏(さえきしげうじ)というさむらいがいた。 |
神官の重氏は、ある日、石州吉賀(よしか)の樋口(旧六日市町)から一頭の子馬を |
買い「龍の駒」と名付け大事に育てた。龍の駒はいつの日か、いつも足のそばからを |
あげ、口から火を吹き、一鞭で千里(四千キロ)も走る名馬となった。やがて時の天皇 |
様に噂が届き、馬を連れてくるよう命令された。 |
離れがたい重氏は愛馬の「龍の駒」とともにいづこともなく隠れてしまった。 |
朝廷は追ってをくりだしたが見つからず、重氏の子・小五郎を捕らえ、京都の四条河原 |
で処刑することになった。それを伝え聞いた重氏は愛馬の「龍の駒」に乗り、追っ手を逃 |
れ、向峠(むこたお)(錦町)の後にそびえる宇佐ヶ岳(現在の小五郎山 一一六二b) |
に登った。山頂から東の空を眺めると、神のお告げがあり、「朝廷の命令に背いたため、 |
今、小五郎が殺され息絶えたところである」ことを知り、驚き、悲しみ、自分の意地っ張 |
りを気づいたが時すでに遅し。重氏は下山しようと愛馬に一鞭いれると、茂っていたか |
づらに前足をとられ、深い谷底に落ちてしまった。川岸の大きな岩の上に横倒しになった |
愛馬水で洗い、引き起こすと、その岩に馬の体の跡で窪みができ、小さな池になった。 |
これを湯船といい、その池の水を混ぜると大嵐が起こると今でも恐れられている。 |
そこから三キロばかり上流の河津まで飛んだが梅の小枝で胸を突き息絶えた。 |
重氏は「人々に私に祈れ、そうすれば、雨乞い、火事、病気の災難すべてかなえて |
やる」と言い残し死んでしまった。 |
その後、里の人々により、「崎所神社(さきのせ)」を築き重氏と「龍の駒」が祀られた。 |
(参考文献: 錦ふるさと散歩 山口県錦町観光協会) |
下記の湯槽顕彰之碑の裏の碑文より推測すれば、 |
昭和十四年 1936年からさかのぼること八百余年 1136年保延より余年前の話である。 |
廿日市市佐伯の歴史によれば 「崎所神社」 |
「佐伯崎所広兼の子孫は大内抱領の神官を務め、その18代後、 佐伯六星合陸(ほしやろく) |
と言う人物が安芸の国伊都岐島(厳島)平清盛公につかえますが、 石見国吉賀郷東条ふき |
の里に誕生した龍馬の生んだ馬をめぐる争いで佐伯を追われ、 明(美和町阿賀)宇佐(錦町) |
へと落ち、その馬が宇佐山(小五郎)の頂上より、 下河津原(六日市町)の川へ飛び、一命を |
を絶ちます。後にその時の国主大内氏の御下文を給て「大明神崎所宮」として、中道、河津、 |
阿賀の三ヶ所に建立されたものです。その後中道村の人々には厚く信仰されていました。」 |
とあり、山代の伝説と若干の違いがある。 |
湯槽顕彰之碑と壊れかけの鳥居・社 | |
湯槽顕彰之碑 | |
湯槽顕彰之碑の裏の碑文 當湯槽ハ八百余年ノ昔崎 所大明神ノ愛馬ニテ一世 ノ名馬タリシ龍之駒 終 焉セシ遺跡二シテ傳説二 著ル 此度河津金山谷而○ 民是ヲ一層顕彰永世二傳 ・ ・ 昭和十四年十一月○ 画像クリックで拡大 画像クリック後「+」でクリック するとなお拡大 |
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小五郎山から落ちた龍之駒の体の跡で窪 みができ、小さな池になった深谷川の大岩 |
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三キロ上流にある河津の崎所(さきのせ)神社 | |
写真: 2007/9/27撮影 |