トップ 廿日市再発見 歴史 西国街道と宿駅壱


廿日市宿  -壱-

大坂と下関を結ぶ西国街道は、西国諸大名・長崎奉行・幕府諸役人其の他の往来や書状・諸荷
物の逓送(ていそう・・・人から人へ受け継いで送ること。)など主要街道として、重要であった。
宿駅は、公用の通行に対して、人馬の継ぎ立てや宿泊・飛脚などの用を成すために設けられた。
廿日市を通る西国街道は、中世以前の山陽道を基本としつつも、戦国期から近世初頭にかけて
沿岸部の町発展と共に、瀬戸内海沿岸沿いに整備されていった。
天正十五年(1587)一月、毛利輝元は、九州島津氏平定のため下向する豊臣秀吉が廿日市に
止宿するに際し、町入口の拡幅や道の整備をし、また毛利氏による広島城下町の建設により、
山陽道を大きく南下させ己斐から廿日市へと瀬戸内海沿岸部を通る近世の西国街道が形成さ
れた。関ヶ原の合戦の後、毛利氏の防長移封のあと入部した福島正則は、街道筋の町並みや
橋梁の整備、領内の村々から高1000石につき一人の夫役を徴発し、伝馬人足や町送り其の他
の雑用を勤めさせた。この夫役は、西国街道筋の継ぎ送り場にも配置され、幕府の公用文書や
荷物の逓送などにあたり、陸上交通に重要な役割を果たした。

元和五年(1619)に芸備両国に入部した浅野氏は、福島正則の交通政策を継承した。
寛永八年(1631)二月朔日 広島藩領内に於ける宿駅間の駄賃を定めた(駄賃定めの初見)。
それによると、馬一匹につき荷物米六斗、人が乗るときはほかに米二斗まで積載でき、駄賃は
一里につき銀三分の割合で定められていた。
高札にて周知徹底が図られ、廿日市は西条四日市と同種のものが建てられた。

広島藩の交通網が画期的に整備されることになったのは、寛永十年(1633)の幕府巡見使の
巡察であった。藩は御茶屋作事・道橋・一里塚各奉行を任命し、領内十五箇所に三軒ずつの
御茶屋を設け、道路幅を西国街道は二間半(約四.五メートル)、石見・出雲路は七尺(約二.
三メートル)、村伝いの小道は三尺(約一メートル)に定め、一里三六丁の制が決められ、この
時、一里塚が設置されたのである。廿日市の御茶屋作事奉行には林権大夫が任命された。
翌寛永十一年にも、巡見使の通行があったので、廿日市から井口にかけての西国街道は、
満潮時になると通行が困難であったため、藩は米田十兵衛・河原藤兵衛を奉行に任命して
道普請を行わせている。
このように近世の交通の制度・施設は、寛永十年(1633)の幕府巡見使の巡察を機に、さら
寛永十二年(1635)から制度化された「参勤交代」によって整備・確立されていった。
西国街道にはその要地に宿駅が設けられた。宿駅は、幕府諸役人や諸大名・公家などの
公用の通行に際し、人馬の継ぎ立てや旅宿・飛脚などの用を果たした。
参勤交代の大名や幕府諸役人の宿泊にあてる本陣や脇本陣を中心にその従者や一般
旅客の宿泊にあてられる町屋が建ち並び、街道沿いに駄賃定めの高札が建てられていた。

ホ 御高札(おんこうさつ)

東材木町の北側の建物の中にある。
「廿日市上下駕籠定の事
玖波江四里本馬百八十文半馬百五十二文軽尻百廿四文人足六十文広島江三里本馬百廿四文 半馬百四文軽尻七十九文人足六十文」と書かかれており、廿日市が宿場町であることがわかる。


波打ち際が今の宮島街道辺りか?



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