越中富山の薬売り(売薬) |
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江戸時代、越中国内の売薬は「三組三ヶ所」といわれた。 |
三組は高岡、小杉(射水)、富山。 |
三ヶ所は東岩瀬、東・西水橋(みずはし)、滑川(なめりかわ)であった。
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越中富山藩(えっちゅうとやまはん)は、越中の一部(おおむね神通川流域)に領地を持った加賀藩の支藩である。 |
寛永16年(1639年)、加賀藩第3代藩主・前田利常(利長の弟)が隠居するとき、次男・利次に富山10万石、三男・ |
利治に大聖寺7万石の分封を願い出、富山藩・大聖寺藩が成立した。 |
当初の領地は、越中国婦負郡(ねいぐん 6万石)、新川郡(にいかわぐん) の一部(1万6千石)、加賀国能美郡 |
(のみぐん 2万石)の計9万6千石であり、婦負郡百塚(ねいぐん
ひゃくづか)の築城資金が足りずに断念し、加賀 |
藩領内にあった富山城を借りた。 万治3年(1660年)、居城が自領外ということもあり、富山城周辺の新川郡 |
舟橋・水橋(2万4千石)と加賀国能美郡とを交換をし、10万石となった。
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第2代藩主
前田正甫(まえだまさとし) 越中売薬の奨励 |
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越中富山藩の第2代藩主 前田正甫は、初代藩主・前田利次の次男として慶安2年(1649年)8月2日に生まれ、 |
延宝2年(1674年)父利次の死により家督を継ぐ。 |
但馬からタタラ技術を導入して製鉄業を創始し、新田開発、治水工事、産業奨励などにも積極的に行なった。 |
殊に、越中富山の売薬は、備前の医師万代常閑(まんだいじょうかん)から反魂丹(はんごんたん・・・家庭または |
携帯用に用いられた丸薬。霍乱(かくらん)・食傷・腹痛その他万病に効くといわれた)の薬方(薬の処方や調剤方法) |
を取り寄せ藩の産業として奨励したことから始まったと伝えられており、反魂丹を製薬して諸国に広め、越中富山の |
売薬の基礎を作った。
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備前の医師万代常閑(まんだいじょうかん)の祖は、室町期、州堺浦(現 堺市)の万代掃部助(もずかもんのすけ) |
という。堺浦の海岸に異国の商船が流れ着き、掃部助は乗員達を手厚く介抱した礼として唐人から秘法を伝授された |
のが一子相伝の妙薬
延寿返魂丹(えんじゅはんごんたん)の製法だったという。3代目万代主計(もずかずえ)は、 |
応永年間(1394〜1427)に備前国和気郡益原村(ますばらむら)へ、移り住み医者になり、万代を"もず"から"まんだ |
い"と改め、名を常閑(じょうかん)とした。
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「反魂丹役所」を設置 「先用後利」商法により全国に販路拡大 |
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富山藩は、明和2年(1765)「反魂丹役所」を設置し、売薬の保護と共に統制を行い、薬種は大阪で仕入れ、売子は北 |
陸、街道、飛騨街道の陸路と、西回り航路による北前船で遠く九州までの販路を拡大していった。 |
21とも22ともいわれる仲間組(関東組、美濃組、五畿内組、薩摩組等)
が各藩の鑑札(許可)を受けるため藩が交渉し |
たり、同じ世帯に重ねて配置販売することを禁じたり、値引きの禁止、決められた仲間組以外の新規参入を規制したり |
と、保護・育成を行い、越中独自の「先用後利」商法(使った分だけ集金する)を編み出し、江戸末期には2千人以上の |
売子が全国津々浦々を行商していたという。 |
藩内の売薬営業差し止めをほのめかし、鑑札支給に伴ない賄賂を要求する役人はいつの世にもいるもので、その場 |
合は富山藩の交渉が不可欠な藩もあったようである。ある藩では、手に入りにくい北海道松前の昆布を北前船で送り、 |
2割を藩に献上し、残りを藩が買い上げるという昆布ロードができていたという。 |
その藩は昆布を琉球国や清国(中国)との貿易で藩財政を潤していたという。 |
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