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寺小屋教育とは
江戸時代後期の日本人の識字率は、世界的にトップクラスであったと言う。 |
江戸中期ころからいろんな産業で、生産が増加するようになり、その流通が活発になるにつけ、「読み・書き・ |
そろばん」が必須となる背景から、「手習師匠」 上方でいう「寺小屋」で子供たちを教育させる親が増えていった。 |
諸国にあっても、農民が手習いをすることを奨励していたという。領主から出される法令をはじめとし、読み書きが |
必要と考えたからである。 |
現在の学習塾と同様、人気の師匠に学ばせたいという親心は往時もいっしょであったようである。 |
また現在と同様に、5から8歳になると、自分専用の「天神机」を買い求め、入門料 「束修そくしゅう」・硯箱・毛筆・ |
などの学用品一切合切で約八百文ほどの出費を強いられたようである。落語にもある、そば十六文に比し、庶民 |
の懐はかなり厳しかったと想像される。 |
当時の寺小屋の教育システムは、まさに現在のシステムというよりは、歴史は繰り返すのである。個別指導で、 |
往来物をテキストとして、漢字・熟語・地理・年中行事・小倉百人一首、女子には裁縫なども教えていたようである。 |
百姓往来・商人往来・千字文・庭訓往来・女子ならい教訓の書・実語教・童子教など模範文例集や教訓書のなかから |
その子供の家庭環境や能力に応じて、必要なものを個々のレベルで課題を与え、質問があれば、課題が出来上がれ |
ば、前にいる先生のところへ行き指導を受けるというシステムであった。八時から四時ころまでを寺子屋で学んでいた |
子供たちは、まず、かなの読み書きから始まり、その後振りがなつきの教科書となり、かなを参考に漢字を覚えることが |
できたという。 |
「古文書を読もう」森安彦著より引用すれば、弘化三年(1864)から安政七年(1860)の十五年間の史料によれば、八十人 |
中、入門時の年齢について、 |
七歳 五人 |
九歳 三十人 |
十一歳 十九人 |
女子 一人 |
入門時期は二月が半数以上で、一〜三月、十一〜十二月と農閑期に集中している。 (]武蔵国足立郡の例) |
教科書も各人各様で一同が同じ教科書を習うわけでもなく、入門時期も決まりがあるわけでもなく、現在の学校教育と |
大きく違う点が見受けられるのである。 |
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