地元商家の文書でシーボルトが福山 鞆に滞在確認


福山 鞆(とも)  保命酒醸造 中村家

後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう)は、村上源氏の嫡流たる父・久我(こが)雅忠の子であり、持明院統
(北朝)の祖である後深草院に二条という名前で仕えた女性である。
後深草院二条は、その日記 『とはずがたり』 巻五にて、推定正安四年(1302)厳島への旅立ちのなかで『鞆』
触れている。

安芸国厳島の社は、高倉の先帝(第八十代天皇)が平家全盛の世、治承四年(1180)上皇として御幸しており、
跡の白波もゆかしくて(その昔の跡も慕わしくて)、参詣を思い立ち、鳥羽(京都南部、当時船着場があり、西国へ
の旅はここから船出するのが通例であった)より船出、河尻(淀川の河口)より海を行く船に乗り換え、須磨(摂津
の名所、神戸市須磨区)、明石、備後国鞆に至る。何となく賑わし宿と見ゆるに、たいが島とて離れたる小島あり
(今は陸続きである)遊女の世を遁(のが)れて、庵(いほり)並べて住まひたる所なり。これに一、二日とどまりて、
また漕ぎ出でしか遊女ども名残惜しみて、「いつ程にか都へ漕ぎ帰るべき」(いつ都へお帰りの予定ですか)など
など言えば、「いさや(さあ)、これや限りの」(これが最後の旅かも) おぼえて、かの島(厳島)に着きぬ。

鞆の浦は、古くから潮や風の流れが変わるのを待つ「潮待ち」「風待ち」の港として、官用船や廻船の停泊地と
なり、江戸時代、寛文12年(1672)に伊勢国に生まれた河村瑞賢(かわむらずいけん)元和4年(1618)〜元禄12
年(1699)により西回り航路が開かれると北前船が往来して商人の町として栄えた。

万治二年(1659)、大阪の漢方医であった「中村家」子息中村吉兵衛によってもともと鞆の浦にあった「吉備の
甘酒(きびのうまざけ)」にさまざまな薬味を加えて薬味酒として製造販売なされたのが保命酒(ほうめいしゅ)であ
り、江戸時代は幕府の専売制となっており、唯一中村家のみに醸造が認められていた。
保命酒(ほうめいしゅ)は、福山藩主 阿部伊勢守正弘により、禁裏(皇室)・幕府への献上品となり、諸大名間の
贈答用や参勤交代にも多く用いられるようになった。備後の畳表も献上品であった。

保命酒醸造の中村家八代政顕 文政九年(1826)の日記にシーボルトがここ鞆に滞在したことが記されていたこ
とが判明したのである。


シーボルト

シーボルト(1796-1866)は、文政六年(1823)オランダ政府より、長崎出島の商館医として、鎖国中の我が国
に派遣されてきた。情報収集が目的でもあった。
文政11年(1828)の秋、日本の各地から集めた資料を本国へ送ろうとしていた中に国外持ち出し禁止品の
日本の地図などを所持していたことが発覚、翌年国外追放となるシーボルト事件がある。
しかしながら、シーボルトは我が国の近代化に多大な業績を残したことに間違いない。


中国新聞  朝刊   2007/9/22 記事


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