トップ 安芸の国宮島を知る 河井継之助塵壷2


  紀行作品から当時の宮島の様子を読み解く

塵壷(ちりつぼ)
  
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河井継之助
西方遊学旅日記
安芸之宮島編

この項、感情的になって記した部分があり、いずれ訂正するやもしれず。 宮島ゆかりの人物
塵壷 安芸の宮島についての記述内容 河井継之助  塵壷(1)
ながおかネット・ミュージアムHP 長岡市立中央図書館 解読文を引用し知りた 河井継之助  塵壷(2)
かった当時の宮島の様子を探ってみることにする。 二条 とはずがたり
後白河院 梁塵秘抄口傳集
河井継之助は安政六年(1859)九月十八日備中松山を発ち、讃岐・備後・安芸・
周防・長門・筑前・肥前・肥後・筑後・筑前・海路備後へと西方遊学で見聞を広め、 戻る
    十一月三日陸路備中松山へ帰着した。    
安芸の宮島には、鞆津・本郷・西条四日市・広島・草津から小船に乗って Topへ
七日目の九月二十五日朝、宮島に立ち寄って、夜、周防へ船で発つまで滞在
    している。     
継之助は、宮島での一日、何を見聞したのであろうか。現在と相違する点がある
のか、そのあたりも視野に入れて日記を読んでいくことにする。


長岡市立中央図書館 解読文 塵壷 宮島之編   hikogの独自解釈
安政六年(1859) 安政六年(1859)   約百五十年前
九月二十五日:宮島1 九月二十五日:宮島1
   廿五日 晴    二五日 晴
小舟より草津(1)船ニ移ると、 早朝広島から草津に着き、草津船に移り
間もなく船を泛、天気ハ好、 まもなく、草津から船をうかべ厳島へ向かう、天気は良い、
島々諸山之好風景ヲ見、直ニ厳島(2) 瀬戸の島々、山のいい風景を眺めていると
をさして追風ニはせける故、 直に厳島の方に追い風になったので、
無程厳島  江 附 漸五ツ(3)頃なり、 程なく朝八時頃 厳島へ着く 
此中之楽、昨夜之不快(4) 楽しかったこと、昨夜の不快な馬鹿らしき目にあったこと
を散するニ足レり、面白事也、 を吹き飛ばすほど、順調な船足で厳島に着いたことがことのほか面白い
宮島ニ富アリ、年ニ六回之由、 宮島に富籤(とみくじ)があり、年二(二は、にの数字の二で「に」の意)六回行われる
此節ハ其一度ニて、既ニ済けれ 今回は済んでいたが
とも、取当(アテ)し者追々行 当てた者は追々一定の日に買い求めると
事と見へて、同船ニ三四人 見えて、同船客に・さん・よにんおり、
あり、我富札ヲ見たり、 富札を見た。
宮島 江 上りて朝飯を 宮島へ上陸して朝飯を


九月二十五日:宮島2 九月二十五日:宮島2
給へしニ、宿ニ富(5)を取中し 食べに宿に入ったら、富籤の当選者の
名前張り附てありし、 名前が張ってあった、
弐朱(6)計りニて札壱枚 富札一枚が二朱ばかりで
を売(カヘ)、我同宿へ行し者ハ 買え、同宿者は
六七枚持居れり、壱枚 六, 七枚持っており、一枚
当る時ハ、弐両・三両・五両・百両 当ると、二両・三両・五両・百両
余りもある由、其咄細かに 余りになるが、その話詳しく
咄し聞せけれとも略ス、 聞かせたいが略す、
宮島ハ是ニて立と云し也、[注1] 宮島はこの富籤で成り立っていると云う、(継之助は博打等が嫌いなので)
面白からぬ事也、今晩ハ 博打染みた経済で成り立っている事が面白くないのである、 今晩は
面倒ニ成し故止筆」 面倒になる故筆を止める、(筆を止める前に宮島の生活・風俗・経済基盤等について追求してから宮島ハ是ニて立と云し也」と云って欲しかった
此後ハ不記、十二月七日 継之助は信念を曲げぬ性格か?      この後は記さず  十二月七日
漸出し、只覚処を 徐々にただ覚えているところを
記する  而  己 記する
宮島  江  附、朝飯 宮島へ着き、朝飯
ヲ給、直見物ニ出ル、しきりニ を食べ、すぐ見物に出る、しきりに


九月二十五日:宮島3 九月二十五日:宮島3
案内ヲ進けれ共、先ニ奥州 (先ニ奥州行之節云々は詳細を承知していないため不明)
行之節、金華山之案内 多分、以前奥州の旅で金華山(宮城県石巻市)の案内人にはなぜか
者あきたる覚ある故、 呆れた覚えがあるので、
敢  而  辞し、直ニ弥山を差して 宮島での案内を断ったの意か?.  すぐに弥山(みせん)を目指して
登り、此山十八丁(7)ニて寺アリ、 登る、 この山は十八丁に寺あり、
宮廻りとて、更ニ頂ニ登り(8) 宮廻りして、さらに頂きに登ると
見るニ、広島始、江ハ・五日市・ ひろしまをはじめ、えば、いつかいち、
廿日市・地ノ御前、眼下に はつかいち、じごぜんが眼下に見下ろせる
見下、此島随一高山故、四方 この島随一の高い山故、四方の
を見晴し、中国・四国・ 見晴らしが良く、中国・四国
九州山かと思程之遠山 九州の山かと思えるほど遠くの
も見ヘ、頂上ハ大石数々 山も見え、頂上は大石が数々
アリてすこふる険阻ナリ、 あり、大変地形がけわしい、
山上、本堂(9)之処ハ頂ナラサル故、 本堂のあるところは、頂上ではないので、
如此風景ハナシ、先ニ佐野 頂上のような眺望はない、 佐野は先ニ奥州云々とあり、
之咄之様覚、宮島之山ハ 栃木の佐野のことか?  宮島の山は面白からずと云うが、
不面白と、必此堂迄サヘ この本堂まで、


九月二十五日:宮島4 九月二十五日:宮島4
不被参事と思ハる、尤案内 来てないと思う、 もっとも案内
ナクてハ甚無理ナリ、全態 なくてははなはだ無理で、全体
険ニして、路不分明之処、 危険にして道不明のところ
数々あり、頂ヲ少下り、釣寺(10) 数多くある、 山頂を少し下ると釣寺[注2]
アリ、伊都岐嶋、弥山水精寺、 あり、「伊都岐島弥山水精寺」という後刻銘があり、
奉施入、治承元年丁酉二月 たてまつる せ にうし  治承元年丁酉二月日
日建立、聖人永意、施主右大将 建立 しょうにんえいい、せしゅ うだいしょうたいらのむねもり
平宗盛、と云字アリ、古物ナリ、 平家の武将である平宗盛が治承五年、寄進した大梵鐘のことである、
其外東南ニ当り社アリ、随分 そのほか東南の方に社があり、随分
面白山ナリ、山ヲ下り、本堂ヲ 面白い山である、 山を下り、厳島神社を
周く見物、堂之額ハ兼 見物、神社の額(絵馬のことか)
而  聞及し通り、古画数々 聞いていた通り、古画が数多く
あれとも、如何ニすゝけ、惜 あるが、すすけているので惜しいことだ、
事ナリ、堂之広大、其作り 神社が広大で、その造り方が
方ニ驚目程ナリ、千畳敷 目を驚かすほどである、千畳敷
とて小高山ニ堂アリ、此又 といって、小高い山にあり、これまた
広大之物ナリ、鹿多ク 広大なものである、鹿多く
居「 陜  処ニ座数も屋敷も」屋数も相応ニ 家の数は多いいが、
アリけれとも如何に地 陜  土地が狭い、

九月二十五日:宮島5 九月二十五日:宮島5
陶晴堅(賢 カ ) 之込合ヘ敗軍セし(11) 陶晴堅(賢カ)・すえはるかたの"かた"の字を明確に覚えていないようだ)
も″ニ、名高程ニハ風景 おそらく塔の丘(とうのおか)(陶軍の陣地場所)のことであろうと思われる、茶店の前から海側を望むとと眼前に五重塔がそびえ、その後に千畳閣が建っており、それらは小高い山の上にそびえているので、眼下に大鳥居の浮かぶ海を望めない。
ナキ様ニ思、夜ニナリ、船ヲ出し、 そのため、風景を楽しめない場所であるから、名高き程には風向明媚とは思わない、決断力があり、タフな継之助ではあるが、気が短いと思われるのに、宮島にさほど感動しなかったにもかかわらず、一日よく我慢をしたもので、夜になり、やっと宮島から船を出す、
明方、周防之新湊と云処へ 船中泊で明け方周防(山口県の東南半にあたる)の新湊と云うところへ
ながおかネット・ミュージアムHP (塵壷)より引用



註NO 「註」の説明
(1) 草津城(くさつじょう)とは広島市西区草津にあった山城で、創建は不詳。戦国時代、厳島神社神主家(藤原氏)配下の神領衆・羽仁氏が居城したが、その後安芸守護家たる武田氏、ついで大内氏・陶氏の勢力圏に入った。
厳島合戦の前年、陶晴賢と断絶した毛利元就は、天文二十三年(1554)五月十二日、挙兵したその日に吉田郡山城への攻略線上に当る陶方の城攻略のため、二千余騎を従え、佐東郡に兵を進め、大内方の金山城城番栗田肥後入道らを説得し、城を明渡させ次に己斐城、草津城(城番 羽仁氏)、石内、五日市と大内方の兵を打ち破り、廿日市へ進み、洞雲寺に入り、桜尾城に立て篭もる江良氏ほかに城を明渡させ、また厳島を守備していた陶方の深町を島から追い出し、島を占拠したのである。
毛利氏は挙兵当日、金山・己斐・草津・桜尾四城と厳島を占領するという快挙をあげた。こうして広島から廿日市に至る沿岸部を抑えた元就は、桜尾城に桂元澄、
草津城に水軍の将である重臣児玉就方、仁保島城に香川光景を配し、来るべき陶晴賢との決戦に備え、防備を固めた。児玉氏支配下で城の南に位置する草津湊は広島湾を警護する毛利水軍の基地となり、草津の町も大いに繁栄した。このように広島湾沿岸を中心としたエリアは、厳島神社の経済的権益の争奪合戦のため、武田・大内・毛利・陶氏などの奪い合いの時代が続いた。その後毛利氏は、西軍として負け戦となった関ヶ原の戦い後、芸備から防長へ移封となった。
<人名・城名・地名>
陶晴賢(すえはるかた)、毛利元就(もうりもとなり)、吉田郡山城(よしだ こおりやまじょう)、金山城(かなやまじょう後の銀山城)、己斐城(こいじょう)、石内(いしうち)、五日市(いつかいち)、廿日市(はつかいち)、洞雲寺(とおんじ)、桜尾城(さくらおじょう)、桂元澄(かつらもとずみ)、児玉就方(こだまなりかた)、仁保島城(にほじまじょう)、香川光景(かがわみつかげ)、
(2) 芸州厳島図絵(上巻) 昭和48年 編集 福田直記 発行 宮島町によると「厳島図絵巻之壱」に舊(もと)島號(よびな)は恩賀島(おんがしま)または御香島(おんがしま)、あるいは霧島、我島など称(い)へりという説あれど、さだかならず。おもふに、この島もとはさせる名もなかりしに、御神の鎮座(市詰まりまし)し後(のち)、その神號(みな)の市杵とかよはして、頓(やがて)伊都岐とあり。後世専(もは)ら厳島と称(たた)へたり。とあり、定かではないが島の呼び名が色々あったようである。(継之助来島十七年前の天保十三年の発兌(はっかん)本である)
(3) 江戸時代の時刻
(4) 九月二十四日 朝 西条四日市を発ち、広島に午後四時頃着く、城内を見物し、城市とも広大で賑やかであるが、城の外郭は手入れが行き届いておらずあまりきれいではない。山野、島々多く広大な領地であるが富国とはいえない。余りいい印象を持たない広島の船宿を夜四ッ(十時)時分、船宿より宮島へ渡るため、船に乗ったが九ッ(午前零時)過ぎ迄満潮にならないので船は出ず、ようやく船出したら船底が砂につかえて動かず、しまいには小船を雇い草津へ着く始末.
着いた頃はすでに夜が明け、寒いし、寝られなくて、
今宵は馬鹿らしき目にあった。広島の川は全体に浅く、満ち潮にならないと海に出られないのが原因だった、そのため草津に着いたのが夜明けになり、結局、船中泊になった。
(5) 宮島の富籤(とみくじ)は西連町に抽選会場となった建物があった。宮島の富籤は宮島の特産「大束(だいそく)」の入札形式で年六回興行され、大束支配所と呼ばれていた。大束とは、日常使う燃料となる薪(まき)のことで島内の山林から伐り出していた。富札は瀬戸内沿岸全域に売り捌(さば)かれ、当り札には「大束**束」と記され、その収益は運上金として広島藩が収納していた藩に収納するのに、なぜか富籤はおおぴらにはできなかったので、入札の形を取ったと云う。
           宮島本より
(6) 弐朱(にしゅ) 江戸時代、二朱(一両の八分の一)に相当した小型長方形の銀貨か?
江戸期の貨幣制度については複雑で理解し難いので こちらのHPを参考に
 
(7) 1丁(=1町=109m)は長さの単位で、弥山頂上(標高529.8m)まで十八丁(約2千m)の距離があるという意味。
おそらく、この当時から大聖院ルートが利用されていたのではないだろうか古くからこの参詣道は整備され、石段の数は山頂まで二千百六十段あった、現在は、三年前の台風被害で登山道が寸断され、通行不能と思われる。復旧の時期は不明。紅葉谷からロープウェーで行く方法がある。ただし、終点の獅子岩から頂上へは、数十分(40〜50分)歩かなければならない。
(8)
(9)
(10)
芸州厳島図絵(上巻)「厳島図絵巻之四」より記す。
仁王門・・・これより上 弥山の本山にして登路十五丁目なり。故に未の時より己後(いご)はこの門を限りにして常の人登ることを得ず。もし禁を犯して強(しひ)て登る人は、かならず祟(たたり)あり。
大日堂・・・麓(ふもと)より十八丁、弥山の本堂にして所謂神護寺これなり。本尊大日如来。
鐘撞堂・・・(かねつきどう) 洪鐘(こうしょう)を縣たり。右大将平宗盛公の寄付したまへるところ、その銘別に載す。
求聞持堂・・・(くもんじどう) 弘法大師求聞持修法満座の霊場にして、開持の火今にたえず。
(11) 塔の岡に陶晴賢(すえはるかた)軍2万とも3万ともと、宮尾城に毛利の囮城。毛利元就軍3500の厳島合戦の結果は、毛利の勝利に終わった、
陶軍が塔の岡(とうのうか)--「伊都岐嶋千僧供養日記」で夜は万燈会が行われた。社殿のある三笠浜を囲むように突出した東の宮崎と西の西崎といわれた「宮崎」で応永四年(1407)五重塔が創建されてからの呼称--毛利軍が宮尾城に陣取り対峙したが毛利元就軍は、厳島包ヶ浦に上陸し、博奕尾を越え翌十月朔日、塔の岡の陶軍の本陣の背後(光明院の裏山の谷ヶ原 やつがはら)で待機しまた海から有の浦に待機した隆元軍、来島村上水軍は海上に展開、天明を待ち、突撃太鼓を合図に一斉に喊声 (かんせい・・鬨の声) をあげて突撃を開始した
     谷ヶ原
光明院のそばの「誓真大徳頌徳碑」の裏山に位置する広大な窪地で、昭和30年代櫻花爛漫の頃は花見で賑わった島民憩いの場であった。陶方陣取る塔の岡からは光明院の裏山に遮断され、見通おせないが、光明院から塔の岡には距離にしておよそ二百b位しかも下り坂なので攻めやすい場所であった。
[注1] 宮島ハ是ニテ立と云し也・・・この文言は博打嫌いの継之助とはいえ、聞き捨てならない。のであえて記す。
「是ニテ」の文言が非常に宮島を侮辱していると思う。。この策しか考え付かない、なんと智慧のないことよといって云るのである。
いいか、悪いか、信じるか、信じないかは別にして、宮島(厳島)は往時より、神を崇(あが)める神聖な島としてきた。平地の極端に少ない島内で、生活基盤の根源となる農地、原生林の伐採、なかでも宗教的な穢れ(けが)思想からなのか?・・・島内でお産・生理・墓に関して厳しい掟があった。神領衆以外の島民は、厳島神社の修理など職人が主で、瀬戸内の物流の中継基地として経済が発展してくると、その経済権益を巡り、大内・毛利・陶の厳島争奪が繰り返されてきた。商売するモノは作れないなかで、商社的発想の商売つまり富籤(とみくじ)が出てくるのは必然と思われる。継之助の嫌がるであろう遊廓も、宮島の運営に苦慮した広島藩がわざわざ広島から宮島へ移転させたのである。島内も東町と西町(神社を中心に東西に区分した呼び方)に分けられていた。古くは西方に神官・内侍など神社関係者の居住地域であった。その職人たちは東町にと住み分けがあった。
宮島は今でも、墓はない。死を迎えるのも対岸(本州)の廿日市市か、広島市などの病院だし、たしかに生活しずらい。文政八年(1825)の戸口変遷によると、1,028戸  3,734人であったが、今の人口は2千人切っているかもしれない。人口が流出し過疎化した世界遺産の日本三景の宮島である。
継之助に云いたい。あなたは、千二百も続いてきたこの営みを全否定するのかと。長い歴史の中で人々が智慧を絞り生きてきたのに。代替策でも出して、この策はすべきではないというならいざ知らず、若くして自分が家老になるべきと思い上がり、自分ならこうすると、おのれの信念とはいえ、ほんの1日の滞在で,他国のことをすべてわかったかのように批判すべきではないと思う。
140年も経っているのに、今でも長岡には、あなたが旧幕府勢力が次々と寝返り、幕府が大政を朝廷に奉還する中、
戦局を見誤り、絵空ごとき平和な中立国家を目指し、町や民衆を戦火にさらした失政の張本人と云う者がいるではないか。その責任はどうするのか。責任回避すなら今の官僚の政治と同じではないか。妻(子・・いたかどうか?)をほったらかして、見聞を広めるとはいえ、家庭をおざなりにするような者に民衆の気持ちはわかるはずもないし、平和な中立国家なぞ作れるわけぞない、と言い返したい。
萩は極楽、本郷は地獄、登る引地は火の車』

この心の叫びは、所違えど岡を火の海にされ、すべてを失った民衆の云うに云えない心の叫びに似た胸中と同じかもしれない。
この句は、慶長五年(1600)西軍として関ヶ原の戦に負け、防長に移封された毛利の圧制のために一揆の犠牲となった慶長十四年(1609)慶長検地の十一庄屋の悲しい物語があり、処刑場のある本郷村引地峠へ荒縄で縛られ歌いながら登って行ったと言い伝えが残っている,打ち首になった囚人の歌である。
数日前この処刑場跡に行ってきたが、現場を見ると毛利はむごいことをしたものよ。
本郷も、長岡も罪のない民衆を犠牲にしたのは間違いない。
萩は毛利の移封本拠で、検地は徹底して行われ、本郷(現 山口県岩国市本郷町)は楮・柿の木・その他木の一本まで課税された(七つ三つ分・・・73%課税された)山代和紙の特産地で山代地方を支配する代官所があった。


合掌
[注2] 釣寺は、平清盛の次男、平宗盛が弥山山頂に治承五年銘の大梵鐘を寄進した水聖寺の鐘(はんしょう)。
河井継之助が登った弥山は、須弥山(しゅみせん)・御山とも書すれば、又おん山をミせんと唱う者なるや。絶頂まで阪路屈曲(さかみちくっきょく)の登り十八丁。西町阪本(にしまちさかもと)の瀧本坊(たきもとぼう)前より登る。

参考文献:廿日市町史、図説廿日市の歴史、廿日市の文化、宮島町史、宮島本(みやじまぼん)、宮島、芸州厳島図絵ほか 

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