江戸の食文化


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醤油にまつわる話

 本膳料理は大名料理とも云われ、作法が複雑との故、次第に儀礼的な形として残り、一般には、作法にとらわ
れず、今で云う宴席料理の如く、会席料理が江戸中期頃から大流行していった。

其の時代的背景には、次のような要素の社会的変化にあると云う。
●新田開発による耕作地の拡大。
●五街道・河川と海洋交通網の整備等流通網の整備による全国各地から名産品の流入。
●調味料としての醤油醸造業の増加
●秘伝料理であっものが、八百善をはじめ、料理技術が料理本の出版が盛んになり、秘伝の情報開示により、
  広く世間に広まった。

味噌汁は、毎日食されていたようであるが、醤油は、まだ高価でその消費は味噌よりはるかに劣っていた。
元治元年、幕府による値上げを免れた「最上醤油」と認められた、7銘柄
    ◆ヤマサ
    ◆ヒゲタ
    ◆ヤマジュウ
    ◆ジガミサ
    ◆キッコーマン
    ◆キハク
    ◆ジョウジュウ
江戸も末期の元治元年(1864)、この年、幕府はインフレを抑えるため、諸商人に現行の3〜4割の価格引き下げ
を厳命す。銚子と野田の醤油醸造家は、「しょうゆは品質を落としたり、量をごまかしたりできないので、値を下げ
れば経営できなくなる」と申し立てたところ、幕府は「次のものは品質が特に優良なので“最上しょうゆ”として、
特別に値下げをするに及ばず」と、現行価格で販売することが許可されたと云う。
値下げを免除されたのは、銚子のヤマサ・ヒゲタ・ヤマジュウ・ジガミサ、 野田のキッコーマン・キハク・ジョウジ
ュウであった。

野田の醤油は高梨兵左衛門が寛文元年(1661)に創業、その後茂木七左衛門などが次々と開業。
高瀬船による河川流通により大消費地であった江戸に大量輸送で繁栄していったと云う。
大正年間になり、ライバル銚子との販売拡大が激化し、大正六年(1917)野田・流山の個人醸造家8家が合し、
(高梨兵左衛門、茂木七左衛門、茂木佐平治、茂木七郎右衛門、茂木勇右衛門、茂木l啓三郎、茂木房五郎、
石川仁平治と流山の味醂醸造家の堀切紋次郎など)   「野田醤油株式会社」を設立するに至る。
これが現在のキッコーマン鰍フ前身となるのである。

追記 2007/7/8
本日 キッコーマンの茂木会長がTVに出演し、八家からは一代に一人しか入社させないという。其の他興味ある話をされていた。
よく関西の薄口醤油に対し、関東は濃口醤油と云う。この薄口醤油の漢字は間違っていると云う。
薄いとは、醤油の見た目の色が関東に比し、うすいだけで、関東の濃い口の方が塩分はうすいのである。
本来は淡口醤油であると云う。

現在でも行われている饗応接待・社交の中心は、当時は元吉原であった。それが料理茶屋へと移行していった
のである。江戸留守居役、参勤交代で江戸に来た大名が、幕府、諸藩と交渉の場として、また、社交クラブの場
として、だんだん料理茶屋を利用するようになったのである。元禄の頃から玄米から白米を食するようになり、一
般に普及してくるのであった。一部の富豪の間では、外食が盛んになり、料理屋が大きく飛躍していく。
明和8年(1771)深川に松江藩主松平不昧(まつだいらふまい)がひいきにした高級料理店枡屋が創業開始、そ
の後、次々と高級料理店が創業し、文化・文政年間(1804〜1830)六千軒とも云われる数の飲食店で食文化は
大いに盛り上がっていたようである。。
江戸後期には、庶民も料理屋を使用するようになり、こうした時代背景のもと、京料理、茶懐石、それに江戸で
発達した大名料理(本膳料理)が合体して出現したのが会席料理と云われている。

一般庶民の食文化の花  屋台
独り者が60%もいたという江戸で、一般庶民に手軽さと安さで人気があったのが屋台である。
そば、てんぷら、すし、うなぎ、大福など、なかでも、すしとてんぷらが人気が高かったと云う。
江戸前の新鮮な魚を串刺しにした、てんぷらは屋台でしか食すことができなかったようで、多くの独り者が来たよ
うである。本所横綱の花屋与兵衛の考案とされる握りずしは、文化年間(1804〜1817)の頃であり、客の目の前
で握って出すので、せっかちな江戸っ子も驚きであったであろう。文政年間(1818〜1829)には、土用の丑の日の
うなぎ、少し下がって天保年間(1830〜1843)には、稲荷ずしが登場し、江戸の屋台は、人気の軽食、ファーストフ
ード花盛りといった風情であった。

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