トップ 廿日市再発見  寺社 芸州廿日市御本陣跡



芸州廿日市御本陣旧跡
(げいしゅうはつかいちごほんじんきゅうせき)

上記のいしふみが建っている敷地が売りに出され、2008年4月中に空き地となり、5月7日 現地確認したところ、路を挟んだ西側の中央市民センター(08/4/1より、中央公民館が呼称変更)入口に移転されています。
本陣 山田治右エ門(やまだ じえもん)

周防前司藤原親実(すおうぜんし ふじわら ちかざね)が神主職(承久三年1221年)になったとき、山田氏も鋳物師いもじ(鉄を材料とする物を作る鋳工)として鎌倉から厳島神社造営のため、廿日市にやって来たとされる。
天文十年(1541)友田興藤(ともたおきふじ)が最後の神主家として滅亡すると、当地は大内・陶・毛利氏による支配が変転し、商人・職人にも盛衰があった。
山田氏は厳島神主家の時代「中丸・新里(にいざと)・糸賀」と云われた神領衆であった糸賀氏(宗高尾城主(むねたかおじょうしゅ)で神主家滅亡後毛利方)と平次郎を養子とした関係を持ち、鋳物師だけでなく、庄屋、本陣役をも兼ねた有力者となった。

西国街道沿いの賑わいの真っ只中の廿日市天満宮を前に本陣はあった。

西国街道は寛永十年(1633)徳川家光の代 幕府巡見使の巡察を機に道路のインフラ整備が行われ、幅員は2間半(約4.5m)、宿駅や一里塚、街道松が整備された。廿日市宿駅もこのとき設けられ、諸大名や幕府諸役人の宿泊にあてる本陣も整備された。廿日市宿の本陣役は代々山田家が世襲し務めた。
唯一現存する廿日市宿 街道松

<桜尾城址より北東方向に位置す>
ナビゲーション
1津和野藩御船屋敷跡石碑
2 稲生大明神
3 大新楼(名物 大新の桶ずし発祥の地)
4 廿日市御本陣跡石碑
5 廿日市天満宮

戻る   Top