廿日市の特産品 其の歴史 -4-


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幻の大新の桶ずし (だいしんのおけずし)

 昨年(2006年秋)、かってその往時、廿日市に「大新の桶ずし」なる押し寿司の一種が非常に評判であった
と聞き、幻の「大新の桶ずし」の文献を探すこと5ヶ月、やっと、廿日市町史 資料編 W 民族関係資料の
項目に関係記述があるとわかり、この編のみ所蔵していないため、市民図書館にて調べる。
廿日市町史 資料編 W 896頁に「大新桶ずし」の記述を抜粋すると、つぎのようである。

 大新桶ずし
 『廿日市町大新桶ずしトイへバ古来廿日市名物ノ一二テ味も非常に宜シカリキ、其起源ハ遠ク戦国時代
二アリ、戦争混雑ノ場合ナレバざらずしトテざらヲワザト使ヒ、桶ヲすしをけとナシツケルナリ。
桶ノマ ゝ売レルヲ広島辺ヨリ極楽寺に参リシモノ土産トシテ数多買ヒ帰リ居タリキ』

とある。商工会、年配の方にお聞きしても、公開されている史料はなく、口伝承のようである。
下記の由来から戦国の起源は信じ難いところがある時代が少し早過ぎる気がするのである
上記の"戦争混雑"なるとは、戦国時代の桜尾城を中心とした厳島神主家の争い、折敷畑の合戦翌年の
厳島合戦などをいうのであるなら、廿日市は物騒な第一級の危険地域であったはずである。生活基盤のある
地元の庶民は、やむを得ず、息をひそめて、暮らしていたと思われるが、物見遊山の観光客が、この地をわざ
わざ旅するとは考えられない。しかし東西への行き来は、当時の世情であっても皆無ではないことは云えるの
である。あくまでも、推定の域をでないが、宿場町であったので小規模な旅籠はあったのかもしれない。
「桶ずし」は世情が安定してくる江戸時代がその起源に落ち着くのではないだろうか。
ベージュ色が当時の西国街道で、中央あたりの藤掛尾城と数年睨み合いの戦があった。
神主家の争い・折敷畑・厳島合戦と戦はつづく、危険地帯であった。
大黒屋は絵図の街道の中央あたりと推定され、チャンチャンばらばらやっている時代に
誰がすしを買い求めて、北側の極楽寺山に参詣するであろうか

下記の文政八年(1825)の戸口変遷によれば人口2,845人からして、戦国時代はそれ以下の人口規模
町であったと推定する。生業として成り立つには、町がもっと発展していった江戸中期以降であろう。、
なぜなら、参勤交代という大きな宿泊の需要を見込んでの増築がされ、名物となるすしの商いを考え
たと思われるからである。

 旧廿日市 (現在は旧廿日市市・吉和村・佐伯町・大野町・宮島町が平成の合併で新生廿日市市 )は、
江戸時代は西国街道沿いの東西に長い町並の宿場町であった。当時の宿場の機能として、参勤交代や
長崎奉行への公用旅の者への宿所・食事の提供、また、次の宿場町までの荷物を運ぶ人夫や馬の用意
があった。
 「廿日市の歴史探訪 三」 石田米孝著によれば、天保六年(1835)宿駅の利用回数について、次のよう
に述べられている。
     泊まり     25回  (平均月換算 2.1回    25/12=2.1)
     昼食      18回  (平均月換算 1.5回    18/12=1.5)
 一般的には一行の規模は、人夫が五十〜百人位 ・馬が二十〜三十頭を必要とする。
     ◆人夫五百人・馬七十頭必要な一行が三回
     ◆人夫千人・馬百頭必要な一行が三回
     ◆それ以上必要な一行が一回      が廿日市宿駅を通っている。

参勤交代の大名行列は、大藩で二千人、小藩で百人位という。
文政二年(1819)の廿日市下調帖(はつかいちしたしらべちょう)によれば、当時の廿日市の家数について、

     ◆家数 六百六十五軒の内 表町家数 三百三十三軒
       内
      百二十軒   御大名様御下宿二相成分 (おだいみょうさまおげしゅくにあいなるぶん)
      百五十軒   御同様御雇方宿二相成分 (ごどうさまおやていかたやどにあいなるぶん)
      六十一軒   右御用二付罷出候村役人其外人夫共宿二相成候分
                   (みぎごようにつきまかりだしそうろうむらやくにんそのほかにんふともやどにあいなりそうろうぶん)
とあり、大名の一行が大人数のときは、表町の家々は強制的に宿泊を割り当てられたのである。

ここに、2006年10月15日の宮島歴史民族資料館長 高橋修三氏の講演による興味あるデータがある。
文政八年(1825)の戸口変遷について、
廿日市エリア     665戸     2,845人
佐方          159        738
上平良         162        674 
下平良         106        479
宮内          445       1,093
地御前         288       1,210
原            193        949
合計         2,018戸      7,988人
         46,755戸    118,568人   (平成19年4月1日現在)
安芸の宮島    1,028戸     3,734人

 平地の多くない安芸の宮島の戸数が廿日市全体の半数にも及んでいることである。これは以外である。
江戸時代のはじめ、寛永二十年(1643年)、江戸幕府の儒学者 林羅山の三男 林春斎(1618〜1680)が
全国を行脚した「日本国事跡考」の中で「松島、此島之外有小島若干。殆如盆池月波之景、境致之佳興
丹後天橋立安芸厳島(宮島)、為三処奇観」と記し、松島、天橋立、宮島を「三処奇観」と評したのに伴う全
国的な知名度アップにより、移住して来た者も少なからずいたのではないだろうか
さらに、宮島の対岸 地御前、廿日市からの移入も考えられないことはないのである。

さて、桶ずしのことで、今春、4月1日に行われた「はつかいち桜まつり」のイベントで、廿日市商工会議所
女性会が、再現された「はつかいち名物 桜尾 おけずし」が売り出されおり、江戸時代の味は知る由も
ないが、それに近いものと思い食したが、なかなか美味ではあった。
その包装紙の裏には、次のように由来が書かれていた。

廿日市市の桶ずしの由来
 『山陽道の宿場町廿日市の街道に面した大黒屋の店先は旅人たちの出入りで大変な繁昌ぶりでした。
その頃の宿場町廿日市の名物に 「桶ずし」 がありました。 「廿日市の桶ずし」 「大新の桶ずし」 と呼ば
れ繁昌したものです。桶ずしとは、 桶に押し寿司をつけたもので大黒屋のものは独特の風味を持っていた
ようです。廿日市の桶ずしは、文化十一年 (1814年) つまり十一代将軍徳川家斉の時代で光格天皇の
御代に大黒屋新助 という人がいて考案し、創業し、大黒屋の 「大」 と新助の 「新」 をとって大新の桶ず
しと呼ばれるようになったことが明らかにされています。     
 近世になり西国街道の宿駅となった廿日市に津和野藩の御船屋敷がおかれ産物の交易が発達し、町も
にぎわい桶ずしは、風流人士の愛好するところとなり、 一躍廿日市の名物として一世紀半有余にわたり
いされるようになってきました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 以下省略』


上記の由来から、天保のこの頃には、参勤交代や旅する人、極楽寺参詣人を見込んで、すでに大新の旅籠
と桶ずしはあったのである。この大新の桶ずしは、旧廿日市町中東六十三番地に大黒屋という脇本陣をつと
めた家で作られたすしのことである。

廿日市町史 資料編U 安永九年(1780) 佐伯郡諸産物辻寄帳(つじよせちょう) P111に郡内の産物がいろ
記録されており、その中に廿日市の産物のひとつとして、「こけら鮓(ずし)」が次のように挙げられている。

一 こけら鮓   廿日市
  但、此外海辺村々ニも仕候得共至而不宣御座候、
  (ただし、このほかうみべのむらむらにも つかまつりそうらえどもいたってよろしからずござそうろう)
  廿日市之儀者他ニ勝レ塩海も宣御座候
  (はつかいちのぎはたにすぐれ しおあじもよろしくござそうろう)

このことから、安永年間(1772〜1780)には、「こけら鮓(ずし)」なるものが、廿日市の産物の一つとしてあり、
後に大黒屋新助によりその商品化されたものが、大新の桶ずしというのであろうか。

現在のところ史料が見つかっていないため、桶ずしの原材料は不詳である。
主要材料の酢については、先の安永九年(1780) 佐伯郡諸産物辻寄帳(つじよせちょう)には記載がなく
郡内外どちらからの入手かこれまた不詳である。

調味料として酢が広まったのは
江戸時代に入ってからで、文化元年(1804)ミツカン創業者初代中埜又左衛門が酒粕を原料にした粕酢
の製造に成功そのころ江戸で人気を博していた屋台の握りずしに合うと諸国に広まっていった。

江戸後期の文化・文政期に富山・石川・福井の北国や九州、四国、関西等の諸国と活発に交易して
いた「千同屋の過去帳」と「大和屋の御客帳」について記されている廿日市港入津の記録がある。
その「北前船と芸州廿日市湊」佐伯録一 昭和、61年10月1日刊の商品別明細の項には、石炭・米・
干鰯・めざし・黒布・平子いりこ・平子干賀・五島大豆・にしん・塩・素麺・みかんなどはあるが「酢」の
記録はない。いつの頃からか地産地消で廿日市産の酢を使っていたのではないだろうかと考えてい
たが、当地での酢の醸造の記録は未だ見つかっていない。
寛永十五年(1638)の廿日市町地詰之帳に「さか屋 助二郎」の名があり、元禄十一年(1697)には、当
地に三軒の酒屋が一八八石の酒を造っていた。広島藩では、正保二年(1645)に「新敷酒屋ハ御法度」
と新規の酒屋を禁止、その数を限定し「酒造株」を設定した。こうした中酒造統制や同業他社との競争
などで酒造を休止、株を売買、譲渡、預け株をする者が増えていった。宝永七年(1710)の六軒、から、
天明八年(1788)になると廿日市の酒屋は賀味屋百助、なら屋清兵衛、立石屋新左衛門、吉賀屋太左
衛門の四軒に減少している。
幕末期の当地の酒屋は廿日市で小山屋・・・味醂酒・保名酒・焼酎、東屋・・・味醂酒・本直酒・金露酒、
井口屋他三郎・・・本直酒を品目とし、平良・宮内・地御前の五軒も大差なく酢は造っていない。
こうしたことから、大新は当地以外の諸国から酢を仕入れていた可能性が高いと思われる。
使用されていた酢の種類が判れば、桶ずしの酢の塩梅が想像でき、現在のような味かそうでないか
が推定できるであろう。
わが曽祖父母・高祖父母は江戸後期、 文政八年,天保九年、弘化二年、嘉永元年、同五年、元治元年の
出生故、"江戸時代の桶ずし"を食した可能性はないとはいえない。さぞや旨かったのではないだろうか。


 廿日市町郷土文化研究会 昭和60年6月1日発行の機関紙「さくらお」第18号より引用すると、明治三十四
年山陽鉄道案内に掲載された大新の広告によれば、「旅館並二會席料理 但廿日市名物桶すしあり」とある。
また、昭和59年の夏、後裔(こうえい)の方が、桶ずしを再現され・・・・とあるので、それ以前に廃業されている
ことがわかる。 大正出生の方の話では、子供の頃、すしの旨い店があったと聞いた事があるとのこと。
廃業年については史料がなく、上記桶ずしの由来の一世紀半有余とは、符合しないが、おそらく明治期まで
(後述の広告により明治三十四年までは確実) 営業されていたのではなかろうか。

追記(2007年4月26日)
当時、幼少の頃大新の子と遊び友達であったという筋向かいの古老の方の話を聞く機会があったときの話では、
ある日突然家の戸が閉じられたままになったという。話にくい状況から察するに、往時よくあった保証人の判
を押した結果の倒産、夜逃げであったようである。先に廃業年の史料がないと触れたが、こういう悲しい事情が
あったのがその真相であったようである。

大新の店は、昭和五十九年(1984)廿日市町屋跡第一次発掘調査地(:現在駐車場)の西隣に位置する、西国街
道沿いの正連寺の前の現在二軒分がそうであったようである。天神・正覚院参道入口から東へ50bの距離で
行きかう旅人は、まず正覚院の旅の守り神とされる十王像に今回の旅の安全祈願をし、それから大新に立ち寄
り、大新の桶ずしで腹ごしらえをし、西へ東へと次の宿へ向かったのであろう。
時代劇のワンシーンのような街道の賑わいと繁昌している様子が目に浮かぶ。


106年前の大新の広告
      上等  参拾銭    壱飯賄料         上等   七拾銭   宿泊料
      中等  弐拾五銭   同              中等   五拾銭   同
      下等  弐拾銭    同
    右之通相定候也
      明治三十四年四月十日          芸州 廿日市町
                                    大 新 徳 郎
廿日市商工会議所女性会により
再現された「桜尾 おけずし」
14×8cm  450円也
2007/4/1 於:さくら祭り

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