| 広島大学中央図書館 「今中文庫目録」A4判 百十三頁の目録完成 | |
| 目録完成記念講演会が2006年12月13日(水) 同図書館ライブラリーホールで開催された。 | |
| 同図書館研究開発室の説明によると、同大名誉教授 今中次麿博士(1893〜1980)旧蔵の千八百余点からなる史料を | |
| 昭和五十年に同図書館に寄贈あり、この度整理がなされ目録完成となった。 | |
| 今中家は廣島藩に仕えた藩士であり、今中相親(いまなかすけちか・1784〜1857・幼名 他人太郎よそたろう・後に大学 | |
| ・晩年 丹後と称す)は弘化三年(1846)年寄上座にあり、以後、安政元年(1854)年寄を退くまで、財政破綻の危機に瀕して | |
| いた廣島藩の財政の立て直しに尽力した。 | |
| 今中文庫目録 | |
| A分類 記録・文書 | |
| B分類 転籍 | |
| C分類 今中家関係文書・・・・今回整理完了史料群 | |
| と三分類に整理されている。 | |
| 貴重な史料として今回一部展示されたものの紹介。 | |
| C13-4 | 今中他人太郎宛頼弥太郎(春水) 書状 |
| C13-6 | 今中他人太郎宛頼弥太郎(春水) 書状 |
| C13-7 | 今中他人太郎宛頼弥太郎(春水) 書状 |
| C25-6 | 今中相親作七言絶句 切紙 仲秋賞月 |
| C22-9 | 嫁ぐ娘への心得覚 |
| C51-80 | 退隠に付口演書 |
| C31-111 | 厳島社参 弥山登山并に厳島岩風呂に付休暇願い控 |
| C31-90 | 痔疾に付牛田村石風呂入湯の為休暇許可状 |
| C10-3 | 山城国綴喜郡之内薪山・薮・屋敷地預り証文写し |
| C18-2 | 幕府より一万両拝借の件覚 |
| C7-2 | 異国船防禦に付諸事倹約令 |
| C22-10 | 倹約に付家中心得書 |
| 判物箱-1 | 御判物 御馬廻り今中主馬助相政(八左衛門) |
| 判物箱-9 | 配知目録 今中他人太郎 |
| 判物箱-18 | 配知目録 今中大衛 |
| A6-1 | 今中大学日記 |
| 今中家の歴史 | |
| 今中家家系図によれば、その祖は近衛関白従一位太政大臣藤原基道(もとみち1160〜1233)という。 | |
| 基道の庶子という光近は、中関白の「中」字を賜り、氏とし、近衛家の領地を配分され武家となる。 | |
| 以後、代々現京都の山城国久世郡富野郷に地頭職として、その後には、同綴喜郡普賢寺山(つづきぐんふげんじやま) | |
| に城を構え、城主として周辺地域を支配した。 | |
| 重光の代に氏を今中とする。室町幕府側の重光・光安父子は、足利義昭と不仲となる織田信長にて城を明け渡すことと | |
| なる。光安は織田信長に仕え、その後、天正五年(1577)浅野長政に仕える。関ヶ原の戦で功を上げ大阪夏の陣では、 | |
| 和歌山城留守居役を勤めていた。 | |
| 浅野家の廣島藩への転封に伴い、今中家は下向。沢家との関係で浅野家と親戚関係にあった。 | |
| 明治新政府の廃藩置県により、藩消滅まで浅野藩に仕えた。 | |
| 特に興味深い史料として次が上げられる | |
| C22-9 | 嫁ぐ娘への心得覚 |
| C31-111 | 厳島社参 弥山登山并に厳島岩風呂に付休暇願い控 |
| C31-90 | 痔疾に付牛田村石風呂入湯の為休暇許可状 |
| C10-3 | 山城国綴喜郡之内薪山・薮・屋敷地預り証文写し |
| ●嫁ぐ娘の親の気持ちはいつの世でも変わらないということ。 | |
| ●上級藩士といえども、藩地内郊外・城下内への外出に許可申請が必要であった点。 | |
| ●今でいう京都の山・屋敷地を綴喜郡在住の森・木原両家から今中金左衛門・治左衛門宛に | |
| 出された同郡江津村の今中家伝来の山・屋敷の預かり証文(享保十七年)。 | |
| この証文の興味ある点は兵農分離との関係で、京都の山・家屋敷を森・木原家に名目上の名義貸しをしており、 | |
| きっちりと預り証文を取っているところにある。 | |