桜尾城と厳島神社神主家

ー神主家滅亡後ー



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桜尾城 −神主家の居城ー の続きとして、神主家滅亡後の桜尾城はその後どうなっていったのであろうか。
弘治元年(1555)十月朔日(1日)厳島合戦が、天明とともに陶晴賢、毛利元就軍の戦闘開始する前年の天文二十三年(1554)
五月十二日陶晴賢と断行を決意した元就は、陶方の城攻略のため挙兵当日、金山・己斐・草津・桜尾四城と厳島を占領する
という快挙をあげた。
桜尾城主 桂元澄
挙兵当日の天文二十三年(1554)五月十二日に桜尾城を接収した元就は、城主として桂元澄(かつらもとずみ)を置いた。
毛利氏庶家坂氏から分かれた桂氏は、元澄の父桂広澄が桂村(現在の安芸高田市吉田町)で桂姓を称したことに始まる
元澄の父桂広澄は坂氏らの元就造反の動きが発覚し、坂氏とともに責めを負わされて自刃したが元澄は元就に説得され、
自刃をお思い留まり、以後元就に忠義を尽くすのである。
厳島合戦の前、多勢に無勢の毛利元就は、どうしても陶晴賢を厳島におびき出して狭い地で戦うしか勝利は見えない。
そこでかっての坂氏・父広澄の謀反の因縁から桂元澄を利用するのである。それは元就が厳島に渡海している間に、元澄
が吉田郡山城を攻撃する意図がある旨の偽の起請文を陶晴賢に出させ、晴賢に信用させ厳島攻めを遂行させることである。
かって元就は「陶家の有力武将江良房栄が裏切っている」とでっちあげ、なんなく隆房(晴賢改名前)に知略家の臣下を殺さ
せるのに成功している。老練な元澄はいざ厳島合戦のとき、晴賢に対し心中穏やかならざるものか桜尾城に留まっている。

元澄は福原貞俊・口羽通良らとともに「親類衆」と呼ばれる毛利氏重臣として、
下口境目番二ハ迚、能登守桜尾に置候ヘハ当城ハくるしからす候と存候・・・・・・・・(毛利隆元書状)
ここにきては時間の問題である陶氏との決戦に備えて、「下口境目番」とされる広島湾頭の周防からの安芸への西の侵入口に
あたり、守りを警固にすべき重要な拠点となる城の備えは、桂能登守元澄を桜尾に城番(定番)させることで十分であるとした。
元澄御歳五十五歳であった。

城番(じょうばん)について
城番には、定番(じょうばん) と在番(ざいばん)がある。
定番は、長期間にわたり城番を勤め、恩賞が約束されている
これに対し在番は、軍事奉仕として一定期間城番を勤め、交替するもので、期間が延長されようが新たな給地が与えられ
る事はない。

      毛利元就同隆元連署判物             (萩藩閥閲録   巻十二  桂 能登))
神領之内平良宮内郷六百九拾六貫、佐方七拾五貫、当
町一円進之置候、全可有御知行候、仍一行如件、
   天文廿三年七月二日       隆元御判
                       元就御判
       桂能登守殿
        (元澄)

判物(はんもつ)・・・古文書の一様式。室町時代以降、将軍や大名が書判すなわち花押を加えて所領の宛行(あてがい)・
            安堵(あんど)などを行なった下達文書。
宛行(あてがい)・・・所領や禄物などを与えること。
安堵(あんど)・・・土地の所有権・知行権などを将軍や領主が承認すること
下達(かたつ)・・・上の者の意思を下の者に伝えること

この判物は、天文二十三年(1554)五月十二日元就が陶晴賢と断交して佐西郡(ささいぐん)iに進攻し、大内方の家臣毛利与三、
陶方の家臣 江良賢宣、神領衆の己斐豊後守、新里宮内少輔などが在番して守っていた桜尾城を吉川元春・熊谷信直・洞雲寺
住職らに説得させ、城を明け渡させて城を接収してのちに、毛利氏重臣の桂元澄を置いて決戦に備えた。その元澄に対して、桜
尾城番にともなう宛行をおこなった下達文書である。

      毛利元就同隆元連署宛行状案
今度桜尾之儀御入魂忝候、仍神領之内永興寺之事進之置候、全可被成御執務候、為後日一筆如件、
   天文廿三寅甲五月廿二日                 隆元判
                                    元就判
   永興寺打渡案文
洞雲寺
     衣鉢閣下

この文書は元就・隆元父子が桜尾城開城交渉の際の洞雲寺の尽力に謝し、その賞として永興寺を宛行(あてが)ったものである。

毛利元就・隆元は、桂元澄に平良(へら)・宮内(みやうち)六九六貫、佐方(さかた)七五貫、当町(廿日市町一円)を与えた。
元澄が所領を与えられたという事は、城番の定番を勤めるということになる。在番ではない。
またこの判物の意味するところは、所領 平良・宮内六九六貫とは、六九六貫=米六九六石の年貢を取り立てる土地を支配する
権利を同地内で与えられたということである。

貫(かん)とは、田地に用いた単位。田地の収穫高を銭に換算して表したもので面積は一定でない。
武家の知行高は、これを用いて示した。
また銭(ぜに)を数える単位で一千文(もん)を一貫とする。
当時の一段(反)あたりの分銭(年貢高)の平均値は四百数十文程度といわれるので、これらにより
所領 平良・宮内六九六貫は、どのくらいなのか、おおよその面積を換算してみることにする。

桂元澄 所領面積換算
696貫を文(もん)に換算すると    696×1000=696000文
分銭平均 1反=仮に450文とし、696000文を反に換算すると  696000÷450=1547反
10反=1町     1547反を町に換算すると    1547÷10=155町
元澄の所領 平良・宮内六九六貫は、おおよそ155町となる広さということになる。

土地の境界に関するもめごとは、いつの世にもあることで、厳島神領もその例外ではない。殊に政権交代前後の宛行(あてがい)
においてよくもめるのである。

足利尊氏の造花保寄進
建武三年(1336)から明徳三年(1392)に至る南北朝の内乱が厳島神主家にも影響があった。建武三年正月十六日神主親顕が、
建武政府に反旗を翻して鎌倉から京都に攻め上り京都を占拠した足利尊氏軍と奪回せんとする北畠顕家と新田義貞軍が京都
近江での戦闘で足利軍に属していた神主親顕が討ち死にし、敗れた足利尊氏は海路九州に西走し、再び勢力を整え、四月三
日に博多から東上を開始、五月一日天下泰平の所願成就を祈って造果保(ぞうかほ)・・・東広島市高屋町 を厳島社に造営料
所として寄進している。 
神主とは名ばかり、時の政権とのつながりで厳島神主家は神領の平定・拡大で戦う武士集団であった。また社の構成員の支配
(人事権等)は保持しつつ、厳島社の祭祀等の社の実務経営は、社家(棚守・内待等)が担当していた。
足利尊氏の造果保寄進から十八年後 文和三年(1354)十二月、将軍足利義詮は小早川氏一族の小泉氏平に造果保を勲功賞
として預け置いた。この造果保の一方的な処遇をめぐり、以後百数十年に渡り神主家と小泉氏・平賀氏との紛争が続くのである。
当時の神主藤原親直は、北朝貞治五年(1366)〜6年に大内弘世の安芸進出の機に乗じ実力で造果保奪回を企て、造果保内の
小泉氏の要害を攻撃、親直も城を構え、北朝応安元年(1368)から翌年にかけて、度々の幕府の制止命令にも耳を貸さず、戦を
している。応安三年と至徳元年(1384)四月には造果保支配を認める幕府の裁定を得た。
しかしその後も幕府は、厳島社に造果保支配を認めたり、取り消したり、紛争が長期化している。
紛争長期化の原因は、造果保の足利尊氏の厳島社への寄進と足利義詮の小泉氏への預け置きといういずれを有効とするのか、
幕府の裁定の不徹底と、神主家の頼りにする大内氏の安芸の拠点東西条(とうさいじょう)に近く、小泉氏がまた実力で神主家を
圧倒し追い出す事が困難であったことが挙げられる。
武力による実力行使・幕府への訴訟・大内氏の後ろ盾を得るという方法で、周辺国人領主(室町期の在地領主)に対抗しつつ、
神領の維持を図るという神主親直は、正に闘う厳島神主家の象徴である。
この神主家の闘う性格は、その後も継承されていくのである。

先の元澄の所領は、厳島社領と入り組んだものと思われる節がある。可愛川の上流に守宗名を所領する元澄と下流の御衣領
を知行する厳島社 棚守房顕(たなもりふさあき)との用水懸かりをめぐる紛争がある (年号不詳六月十三日桂元澄書状)。

桜尾城の北方およそ1キロにある洞雲寺(地元の呼称 とおんじ)領は代々神主家の時代より、諸役免除であった。
洞雲寺は長享(ちょうきょう)元年(1487)神主藤原教親(のりちか)が周防龍文寺(l(りゅうもんじ)の金岡用兼禅師(きんこうようけん
ぜんじ)を招き開山した神主家の菩提寺である。この龍文寺は陶氏の菩提寺であり、陶晴賢の首塚はここ洞雲寺にある。
もちろん自分が眠るとは知らない晴賢ではあったが、天文十年(1541四月五日)前神主友田興藤、翌六日神主広就が相ついで
自刃し、神主家を滅ぼした大内・陶氏は四月九日に桜尾城で勝ち鬨を上げ、佐西郡を支配下に置いた。
次の文書は陶晴賢が洞雲寺領の諸役免除を安堵する意向のある旨、家臣が洞雲寺に伝えたものである。

     陶氏奉行人連署安堵状
去永正十八年三月十一日如、凌雲寺殿様(大内義興よしおき)御判物井天文十年四月廿六日 龍福寺殿様
(大内義隆)御判物、当寺御領分諸天役御免除之儀、向後聊不可有相違候、此上猶不可有相違目之通、直
可被得尊意候、恐惶謹言、
   四月十四日                               (江良) 房栄  (花押)
                                          (江良) 顕宣  (花押)
  洞雲寺
     衣鉢侍者禅師

天文二十年(1551)八月二十日陶晴賢が主君大内義隆を討ち謀反を起こすと、晴賢が石見 津和野吉見氏挙兵に、その制圧に
数ヶ月を要している間隙を縫い毛利元就も晴賢と断行し、五月十二日、陶方の城攻略のため挙兵当日、金山・己斐・草津・桜尾
四城と厳島を占領。こうして桜尾城は陶方から毛利氏方の桂元澄支配下に入ったが、洞雲寺も政権交代による変動に翻弄され
るのである。陶氏同様毛利元就・隆元父子の判物を得ていた洞雲寺領であったが、元澄はこれを無視し、洞雲寺領内に入部し、
飛脚人足の徴発(ちょうはつ・・・強制的に人を呼び集めること。) を強行・他の寺屋敷等押領した。

時の経つこと四年、弘治元年(1555)ついに陶晴賢と一吉田の国人領主であった大大名を目論む野望のある毛利元就の対決の
場となる厳島の合戦へと突き進むのである。
   くわしくは 「厳島合戦考」序 を参考

桜尾城主 穂田元清
毛利氏重臣で親類衆の桂元澄のあとに桜尾城主となったのは、毛利元就の四男穂田元清(ほいだもときよ)である。
元澄あとの桜尾城主を穂田元清にするべく、永禄十一年(1568)には決定済みで、元澄は自己の所領はすべて子孫に伝えたい
が元清が城主となつても麓廻之領地が少しはなければ困るであろうとし、元澄所領のすべてを子孫に譲渡することをしなかった。
こうした経緯から、永禄十一年(1568)七月元就・輝元は元澄五男広繁に対して惣平良二十六町二段、分銭百十一貫二百五十文
宮内村四十一町八段、分銭百八十一貫百五十文を給地として与えた。
この時期の元清は桜尾に入城するもなく、北九州と出雲の戦に出陣しており、元亀三年(1572)に入城と推定されている。
天正三年(1575)備中松山城三村元親を討ち備中を平定した毛利氏は猿懸城(岡山県小田郡矢掛町)に元清を置き周辺に五千貫
の地を所領として与えた。元就の子のなかでも不遇とも思える元清の要求があったのではないかとの見方もあるようである。
元清は天正四年(1576)正月ごろに猿掛城にはいったが、桜尾城主も保持しつつ、桜尾城に妻・同母弟を残している。
元清を補佐する元澄の五男広繁も備中陶村二百貫を宛行われている。
毛利氏と織田氏との関係は全面対決との様相を呈し、天正七年(1579)九月備前宇喜多氏の毛利氏離反により、猿掛城は重要
拠点となった。
天正十五年(1587年)には九州征伐に向かう途中、あの豊臣秀吉が桜尾城に着陣している。
元清はその後、天正十七年(1589)の広島城築城の普請奉行に任ぜられ、慶長二年(1597)桜尾城(広島との説あり)で卒(しゅっ)す。

桜尾城最後の城主 毛利秀元
秀元は、元就の四男穂田元清の二男として、備中猿懸城に生まれる。豊臣秀吉から厚い信任を受け、天正十八年元服し、豊臣秀
吉の偏諱(へんき)を与えられ秀元と称した。
毛利輝元の養子候補として文禄元年(1592)九州へ下向途中の秀吉が広島城で対面し、輝元に実子誕生の場合はその子が継嗣
となり、秀元には相応の領地を与えるよう命じ、毛利氏継嗣が正式に認められた。
実子秀元就の誕生により、秀元の処遇には変遷があり、慶長四年(1599)六月十五日長門国十三万三七九〇石、周防吉敷郡三万
三九〇九石、元清旧領(安芸・周防・備後)一万三一五六石と合わせて十七万七八五六石が与えられた。毛利氏全領石一一八万
七六九〇石の15%にあたる
文禄元年(1592)豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては、輝元に代わって毛利軍の総大将として出陣。慶長2年(1597)の再度の朝鮮出
兵には、全軍の総指揮官として、出陣し戦功をあげた優れた武将であった。
慶長五年(1600)豊臣方に加担した関ヶ原の合戦で敗れた広島城主毛利輝元は、徳川家康にその領地を36万石に大幅に減封さ
れ、防長2ヶ国転封により、安芸広島城から萩へ移る。敗北の将輝元は慶長九年萩城を築城
一方、廿日市の地を離れ山口に居を構えていた秀元は、先に十七万七八五六石が与えられていたが輝元の防長転封に伴い、長
門豊浦郡など三万六二〇〇石を分知された。慶長七年(1602)長府 長門櫛崎城を再築城し、山口から居を移し、支藩 長府藩の
祖となった。しかし徳川幕府の「一国一城の令」により元和元年(1615)六月十三日櫛崎城を破壊し隣接の地に居館を造営した。

そして時代は進み
慶長五年(1600年)関が原の戦後、毛利氏が防長へ転封(領地の移し換え)になり、毛利氏支配の終焉に伴い、桜尾城は次第に荒
廃していき、樹木が生い茂る小高い山に成り果てる。そして広島藩の御建山 (おたてやま・・・松・杉・檜などの良木の育成が可能
な場所は御建山とする方針をとって設定され、そこではどんな木でも伐採を禁じられた。) となった。城址の西方の空き地となった
居館に寛永八年(1631年)津和野藩の御船屋敷ができた。
こうして承久三年(1221)鎌倉幕府御家人 藤原親実以来、約400年続いた桜尾城の幾多の歴史はここに静かに終わりを告げる
のである。
の後城址は、大正元年(1912)桂元澄の子孫、総理大臣三回(第一次1901から第三次1908年):経験の桂太郎氏(山口出身)が
廿日市に寄贈し、昭和42年頃約30bの標高の桜尾城址は10bくらい削られ阿品 (弘治元年厳島の合戦で毛利元就が風雨を
ついて厳島包ヶ浦に向け出立した火立岩の近く) の埋立に使われ、桂公園として市民の憩いの場となっている。 
しかし残念なことに、兵どもの夢のあとは、もはや面影もなく、ただのグランドになり果ててしまった。現在廿日市市にあった城址
はすべて土地整理がなされ団地となり、その痕跡すら消し去られ (標柱・いしふみのみ) まったく面影は見当たらない。


桜尾城の城郭のようす
天文十年(1541年4月5日)桜尾城が焼失した損傷の程度は不明です。またいつごろまでに城か゛修築されたのかも不明です。
この点についての推測ですが、先に触れていますが、天文十年(1541年)4月5日藤原氏神主家滅亡後、七ヶ月後の天文十年
(1541年)十一月二十日杉刑部少輔隆真(影教)が神主に任命され、神主任命一ヶ月後に厳島に行ったが追い返され、神主影教
はやむを得ず能島(愛媛県)に在城したという。はっきりしませんが、厳島に居を構えようとするくらいなので、桜尾城はまだ修築
できていなかったと考えられるのです。またいつの時代かはっきりしませんが、その後大内氏は、桜尾城に鷲頭治部少輔ほか
を置き (これは桜尾城に鷲頭ほかが住んでいるということになる) さらに銀山城、八木城ほかにも配置し佐西郡の支配に当った
という。このことから鷲頭氏が桜尾城に配置された時までには、桜尾城が修築されたのは間違いないと考えられ、いままでのと
ころ史料が見つからず、「桜尾城」とはいったいどんな姿だったのか・・・・・・・・・はっきりしません。

「桜尾城」に関する参考文献
廿日市町史 宮島本 廿日市商工会議所
佐伯郡誌 桜尾城とその時代 藤下憲明
廿日市の文化 廿日市市郷土文化研究会 毛利戦記 学研
図説 廿日市の歴史 名将を支えた軍師たち 歴史雑学研究学会
戦国武将最後の戦い 新人物往来社

                   廿日市のシンボル 桜尾城を偲んで  PDFファイル


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