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厳島神社の島内両川の災害と闘ってきた歴史

厳島神社創建

平安時代後期の仁安三年(1168)十一月頃、平清盛によって、一門の氏神として、嚴島信仰の対象である厳島神社は、独創的な海上を社殿として創建された。

内外宮の外観など面目を一新した社殿の造営に関し、「()()()(しま)(しゃ)神主(かんぬし)佐伯景(さえきかげ)(ひろ)()」によれば、『この(やしろ)は昔から海浜に建ち波にあたって壊れやすい。社殿が破損したときは安芸国司と佐伯郡司が朝廷に上申し、修造を加える建前だったが、今回は社家の力が及び難いので、景弘の私力で(ことごと)く造り終えた。従来神殿以外は板葺(いたぶき)であったのをこの度はすべて桧皮葺(ひわだぶき)に改め、社殿の間数(けんすう)を増し、新造し、また金銅(こんどう)金具(かなぐ)で華麗荘厳(そうごん)とした。今後破損の時は負担が大きすぎるので、諸社(しょしゃ)修造(しゅうぞう)の先例にならい、安芸守の重任遷(ちょううにんせん)(にん)の功により修造するようにされたい』とあります。

(参照:「宮島町史 資料編地誌紀行T」)

紅葉谷川と白糸川両川の変遷

仁安三年(1168)十一月頃、平清盛によって、一門の氏神として、嚴島信仰の対象である厳島神社が海上社殿として創建された頃は社殿を囲むように両川は流れ込んでいたと考えられている。


参考:「伊都岐島」嚴島神社社務所 平成7年改訂 より加工)

鎌倉後期の130054日、御霊川に2ヶ所、瀧川に3ヶ所の橋を架け、両川(りょうせん)(せき)3町余を整備する為の見積りがある。

伊都岐島社未造殿造営料言状上(いいじょうじょう)(あん)」  正安二年四月十五日(大願寺文書一号)

御霊(ごりょう)(がわ)二ヶ所橋二十間  廿六石九斗四升五合

   (たき)(かわ)橋三ヶ所十七間   廿五石八斗五升八合

   河堰(かわぜき)両方三町余     百二十九石五斗

    (途中略)

    座主坊一宇五間四面   二百四十六石一斗五升

 (途中略)

正安二年4月十五日   桧皮工散位佐伯国重ほか

(広島県史古代中世資料編 V所収)

鎌倉後期の130054日、御霊川に2ヶ所、瀧川に3ヶ所の橋を架け、両川(りょうせん)(せき)3町余を整備する為の見積りに当る。紅葉谷川の河口は朝座屋の東側、白糸川の河口は反橋あたりと考えられている。

古くは両川が神社の鎮座地である御笠(みかさの)(はま)に直接注ぎ込んでいたため、両川の流れと沖より打ち寄せる波が次第に土砂を運んで、社殿周辺の土地が高くなり、御手洗(みたらい)(がわ)と本社東側の岸をはっきりさせて、橋もかける必要になったと考えられる。このような社会の要請により、島内では、川筋の付け替えなど環境整備の拡充が急がれた時代と重なったのではないか。両川(りょうせん)(せき)3町余とは19.64`(160間・109b。3町=180間×109b19,636b≒19.64`)にあたり、およそ20`の整備はとても大掛かりな工事で、神社土砂(どしゃ)流入(りゅうにゅう)堆積(たいせき)保護対策と共に、西町(にしまち)の宅地整備拡張という道路、河川、橋など生活基盤等を形成するインフラ整備の意味があったのではないかと考えられる。

(※上流域を紅葉(もみじ)谷川(だにかわ)―中流域を御霊(ごりょう)(がわ)―下流域を御手洗(みたらし)(がわ)と呼ぶ。)


房顕覚書の記録

房顕覚書70条』に「御本地観音堂之事  (さる)天文(てんぶん)十年(1541)五月四日七日ノ出水(みたらいかわ)山河クつれ社頭(まわり)(すなに)ハマル間、三月廿三日(じゃ)リ土ヲア()、天正九年(1581)(すなわち)八月(ぞう)榮調(えいととのい)御本尊(ごほんぞんを)移奉(うつしたてまつ)ル、九年()ノ歳()夏中時(げちゅうのとき)花香於大御前之経所執行(かこうをだいごぜんのきょうしょにおいてしっこうす)・・云々」とあります。(広島県史古代中世資料編 V所収)

天文(てんぶん)十年五月四・七日(1541529日・611日)、御霊川(紅葉谷川・御手洗川)から流出した大量の土砂は本社後背の本地堂(ほんちどう)観音堂・夏堂とも)を埋め、宝蔵あたりでは一丈(3b強)ほども堆積。自然と紅葉谷川の流れが、川筋が神社後背から西に変わる。



洪水後四十年を経た天正九年(1581)土砂の除去、地形の整理が始まり、この時の土砂で(まろうど)神社から朝座屋後背にかけて護岸が築かれ、本殿背後に(うしろ)(ぞの)が造成された。そこに鐘楼と永禄七年(1564)建立の「未開門(あけずのもん)」が再建された。そして御手洗川は従来の流れを大きく変え、新しく川筋を後園と宝蔵の間を通し、白糸川と合流。川と海岸の堤防を兼ねて大願寺の東方あたりまで築堤。現滝町、久保町など居住地域と堤防を結ぶ筋違(すじかい)(ばし)と西回廊の(つめ)(ばし)の二つの橋が架けられ、八月造営の完成をみた。

元文(げんぶん)四年(1739)の大洪水後狭隘(きょうあい)な堤防西の松原」築堤

元文(げんぶん)四年(1739)に大洪水があり神社境内を埋めます。
何度か土石流に見舞われた神社ですが、主要社殿は巧妙に土石流の流路からはずれています。厳島神社西回廊の出口にある大願寺の御手洗川付近は昔は、海であり、「熊毛(くまげ)()」と呼ばれていました。流出した土砂を「熊毛の洲」に沿って盛り上げ築堤しました。

元文(げんぶん)四年(1739)の大洪水後は、「熊毛の洲」が直接海に接しなくなり、大願寺境内には住吉神社が鎮座し、その辺りに千石門があり、御社(ごしゃ)(まい)をここまで船で運び、陸揚げしたようです。

その後、(かん)(ぽう)元年(1741)春、広島の豪商野上屋、鉄屋(くろがねや)、三国屋、満足屋などが私財を投じ、北風の荒浪を防ぎ、且つ客船の碇泊(ていはく)に便するため土砂を運んで新たに50丈(約152b)におよぶ堤防を増築しました。こうして、(たまの)御池(みいけ)(大鳥居より本社側の入江の神聖地)と御手洗(みたらし)(がわ)によってはさまれた狭隘(きょうあい)な堤防である「西の松原」ができたのです。





島内両川の災害の歴史

宮島の地形は、「紅葉谷川」と「白糸川」両川の土砂災害によって、その変遷をみることができます。災害の歴史は「宮島町史特論編・建築編」、「棚守房顕覚書」や嚴島~社などの記録から、およそ二百年おきに、発生していることがわかります。

正中2625

132584

大風により大鳥居倒壊、門客神社、楽坊、平舞台が破損

天文6年(1537

1537826

梅雨時期の大風と高潮により門客神社、楽坊、高舞台、平舞台が破壊

元文4

1739

山津波、流出土砂で西松原を築堤

昭和20

1945

台風による山津波のため天神社、廻廊等大破




(※拡大図

東町は海の埋め立てによって、西町は山の崖を切り崩して町を広げていった様子が伺える。
(参考:「世界遺産・厳島 先人に学ぶ防災の知恵」P234P93

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