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  トップ 廿日市再発見 ゆかりの人物 堀田仁助
                                           堀田仁助
                                              (ほったにすけ)

◇廿日市に生まれた神童か
堀田仁助は、廿日市津和野藩船屋敷に生れた.石見津和野藩士で、幕府の天文測量方として、蝦夷地航海測量に赴き、その先駆者として功績を残した人物である。
 
◇藝州廿日市宿
廿日市宿は、石州と藝州の陰と陽の縁を結ぶ「津和野街道」の終着地である。
承久三年(1221)鎌倉幕府御家人 藤原親実以来、約400年続いた桜尾城は、厳島神社神主家の居城、大内、毛利氏とその時代の安芸国佐伯郡の中心であった。天正十五年(1587年)には九州征伐に向かう途中、あの豊臣秀吉も桜尾城に着陣している。
慶長五年(1600年)関が原の戦後、毛利氏が防長へ転封(領地の移し換え)になり、毛利氏支配の終焉に伴い、桜尾城は次第に荒廃していき、樹木が生い茂る小高い山に成り果てる。そして広島藩の御建山 (おたてやま・・・松・杉・檜などの良木の育成が可能な場所は御建山とする方針をとって設定され、そこではどんな木でも伐採を禁じられた。) となった。城址の西方の広大な空き地となった居館跡に寛永八年(1631年)津和野藩の御船屋敷ができた。

◇藝州津和野藩御船屋敷
元和(げんな)六年(1620)石州津和野藩亀井家(4万三千石)は、廿日市に「船着ノ蔵屋敷」を置いた時代はまだ参勤交代や特産の石州和紙の輸送などに利用できるような宿泊・紙倉施設は整備されておらず、廿日市商人の鳥屋七郎右衛門宅に宿泊していた。しかしこれがなにかと不便につき、廿日市町内へ宿泊施設を望んだ津和野藩は、寛永七年(1630)三月二十五日、本陣・庄屋役を仲介にして広島藩へ用地の提供を願い出、翌、寛永八年(1631)五月十八日壱反八畝廿七歩の土地の引渡しとなり、船屋敷は同年完成をみる。 
津和野藩特産の石州和紙の主な市場は"大坂" であり、瀬戸内海航路を利用し、兵庫の室津まで輸送する目論見であった。参勤交代時も室津まで海路で進み、のち陸路で江戸へ向かうルートをを設定していた。参勤交代の行列は、津和野街道から西国街道に入り、廿日市の可愛川を渡り町屋に差し掛かると船屋敷まではもうすぐである。凡そ18里余(70㌔余)の距離である。 
 
◇堀田仁助は、  生年を仁助由緒書により修正する
仁助は、延享四年(1747)正月五日、由緒書により延享二年(1745)、藝州津和野藩船屋敷 蔵屋敷紙払役人の嘉助の長子として廿日市津和野藩船屋敷に生れた。 出生年については、1745年説もある。 

仁助の生年について、最近の調査で『延享四年(1747)正月五日』は間違いであると判明したので、此処に訂正する。(2012/10/14訂正)
『古代文化研究 第十七号』 島根県古代文化センター 2009年3月30日発行 所収.『史料紹介 「蝦夷地開発記」と堀田仁助の由緒書 
岡 宏三』によればその全体182頁(所収27頁)下段2行目に次の箇所がある。
(ただし、上段後ろから二行目が文政六癸未(みずのとひつじ)年六月、御在府…云々とあり、同は文政となる。)
一.同(文政)九丙戌(ひのえいぬ)九月、私儀成年八十二才相成、…云々より、1826-82+数え年1加える=1745。
よって、
堀田仁助の成年は1745年(延享二年)とし、誕生月日については由緒書に記述なく記載削除とする。

幼名を兵之助、のちに仁助と改め、泉尹(いずただ)と号した。幼少の頃数理に秀で、十四歳で藩の御船手役所見習に抜擢され、藩務に着いた廿日市の生んだエリートである。宝暦十二年(1762)津和野に帰り、十五歳のとき、勘定所見習に抜擢された。藩の湯永経について数学をに学び、明和元年(1764)十七歳で守居組、十八歳で大納戸手伝、十九歳で川普請手伝として甲州に出向するなど活躍。天明二年(1782)三十五歳のとき、第七代津和野藩主亀井炬貞(かめいのりさだ)に随伴し、江戸に赴いた。
仁助の才能は、幕府中枢に知れるところとなり、翌 三十六歳の天明三年(1783)には、幕府天文方に召抱えれた。渋川図書を補佐し、天文学を応用して享和3年、文化五年、文化十四年(1817)と三回暦を作成するなど実績をあげ、次第に重用されるようになる。
仁助は和算家藤田貞資(ふじたさだすけ)に師事し、和算を学び、寛政二年(1790)庚戌二月鎌倉鶴 岡八幡神社に、「関流藤田貞資門人 亀井隠岐守家士 堀田仁助尹名」で和算の問題と解答、その解き方を記した扁額を奉納している。 

◇大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)は
伊勢国白子(しろこ・・・・現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした廻船(物資輸送船)千石積みの神昌丸の船長として、船員16名とともに江戸にむけて白子を出帆したところ、遠州灘で暴風雨に襲われ、約7カ月漂流したのち、翌年アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。ロシアで生活を続け、帰国嘆願書を提出するが受け入れられず、漂流から約9年半後の寛政四年(1792)ロシアの遣日使節アダム・ラクスマンに随行し根室に帰国できた。アダムの来日目的がロシアの南下政策であったことが次第に明らかとなってきた今、時代は確実に動いていった。

◇蝦夷地へ出立
このことで幕府は蝦夷地に重大な関心を持ち始め、蝦夷地の経営・警備の必要性に迫られた。そのため、江戸から蝦夷地の海上航路の開設が急務となった。三月二十四日に幕府の第一陣が江戸 品川から新造船政徳丸で出立し、六月末に到着。蝦夷地 への迅速な物資輸送の必要を感じた幕府は、渋川図書の補佐で天文方暦作手伝の仁助を起用 し、蝦夷地行きの航路図を製作させることとなった。
寛政十一年(1799)六月二七日、品川沖から1460石積の御用船神風丸で蝦夷へ向け出立する。
仁助一行は、その門人河村五郎八、浪人深津小志太、見習木村清蔵、鈴木周助に召使三人、皆川沖右衛門(船頭)ほか三人、水主(かこ)十七人、大工一人、杣(そま・・・木こり)二人の総勢三川沖右衛門(船頭)ほか三人、水主(かこ)十七人、大工一人、杣(そま・・・木こり)二人の総勢三十二人である。オランダ製のイスタラビ・象眼儀・遠視鏡・時計・磁石などが天文方から貸与され、仁助は観測器具 象眼儀・渾天儀・星図鑑・天球儀などを持参。関東・東北地方沿岸部の地形を 船から測量しながら蝦夷に向かった。八月四日、岩手の宮古町に寄り、風待ちのため廿日間の天候の回復を待つ。厚岸に到着したのは八月二十九日であった。
九月四日まで当地に滞在したあと、蝦夷地の太平洋沿岸を測量しながら陸路松前に着き、船で津軽の三馬屋港(三厩みんまや)に渡り、江戸までの帰路は、奥州街道経由で、途中各地で天文観測を行い緯度を計測し、十一月十五日に江戸に帰着した。   
これまでの江戸から蝦夷地までの航海は、沿岸を目視しながらの往来であったが、仁助達は今回の航海で、宮古から東蝦夷地への外洋航路を開拓したのである。 仁助は、わが国最初の江戸・蝦夷地間の航路図「従江都至東海蝦夷地針路之図」を製作し、幕府に差し出した。 
伊能忠敬の第一次測量に先んずる事一年、蝦夷地地図を作成、蝦夷地航海測量の先駆者となった仁助は、忠敬の測量に先鞭を付けた功労が認められ旗本にとの話もあったが、仁助は、旗本登用への話を辞退し、文政九年(1826)、高齢を期に、幕府に辞表願を出す。その時は、幕末末期で明治元年 文明開化の夜明けになる四十二年前のことであった。 翌年、八十歳で津和野へ帰藩し 、た仁助は、森村の養子嘉助の家に落ち着く。そして文政十二年(1829)九月五日八十二歳でその生涯を閉じた。

仁助の見習 鈴木周助 「蝦夷地開發記」の一部紹介

 「蝦夷地開發記」は、寛政十一年(1799)幕府の東蝦夷地上地のとき、各地の緯度測量のため現地に派遣された天文御用堀田仁助門弟の鈴木周助の手記 (北大北方資料ー日本北辺関係旧記目録収載)

                 六月廿七日江戸出新造舩神風丸□□天文方

           渋川図書手傳       
           天文御用 堀田仁助  仁助門人     河村五郎八
                           浪人  深津小志太
                        見習 同   木村清蔵
                        同  同    鈴木周助


◇偉業その評価
対ロシアの警戒に端を発する江戸から蝦夷地への初航路図作成を担った仁助の評価は、あまりにも低すぎはしないだろうか。やはり、お上からの処遇にNOを突きつけたことが最大の要因なのであろうか・・・。仁助という人は他者を蹴落としてでもという出世欲を持ち合わせていなかったのであろう。奥州・蝦夷への伊能忠敬の測量になんら影響はなかったということはあり得ないのであり、いつの日か納得できる歴史的評価がされることをただただ期待するのみである。

仁助は、測量に使用する機器を自ら開発・作成したといわれるが現存しない。残された蝦夷地図、日本地図、世界地図と黄銅製尺度(ものさし)やコンパスなどは、日本学士院に保存されている。津和野大皷谷稲成神社では、仁助が作成した天球儀と地球儀(木製、直径37㎝、1808)を所蔵されている。
特筆すべきことに、非公開の三種の地図も所蔵されている。
特別小図  堀田仁助写の、亀井侯への帰国土産。
日本国地理測量之図
東三拾三国沿海測量之図

      
     <堀田仁助作成の天球儀・地球儀>   <津和野 太皷谷稲成神社 たいこだにいなり >

太皷谷稲成神社の「こ」は「鼓」ではなくて「」で、「いなり」は「稲荷」でなく「稲成」である。

 静かに眠る堀田仁助の墓

 覚皇山 永明寺(ようめいじ) (津和野町)
吉見、坂崎、亀井氏といった歴代の津和野城主の菩提寺。
「森林太郎」と彫られた森鴎外の墓もひっそりと佇んでいる。
山門を入り境内の外を5分位行った山の急斜面を平地にし
た所に仁助の墓はあり、それは質素な自然石です。
苔のむしろの下に何やら読めない刻字が・・・ 自然石の墓なので刻字が読めない
(2007/5/24撮影)
伊能忠敬の蔭に隠れた存在となった仁助の業績をもっと知って欲しいと願いつつ、
仁助の墓を訪ねた時、墓地の場所、墓石に華美には程遠く、家族を含め、
つくづく質実剛健な人物だったんだとの感慨をもった。
津和野街道と結ばれた縁に感謝。

芸州廿日市津和野佐方八幡神社藩船屋敷に生れた仁助が寄進した石灯籠の銘文のことについて
2009/11/8記述編集)



石州津和野藩御船屋敷(廿日市)津和野藩士

堀田仁助の事蹟

~功名を論ぜられぬ裏事情とは~

廿日市に関連した人物で堀田仁助(兵之助、泉尹(いずただ)1745~1829)を知る人はそう多くはない。
2009年5月中旬Web検索で見付けた「蝦夷往来第9号」所収『堀田仁助の蝦夷地海路測定事蹟 新資料「蝦夷地開発記」に就て 高倉新一郎』を北海道江別市情報図書館に複写依頼して入手。

◇史料から知り得た真相について

1)昭和7年1月古書店・尚古堂書店発行「蝦夷往来第9号」に就て北大教授高倉新一郎氏は、文化元甲子年(1804)十一月源中なる人物が鈴木から借写したもので、仁助に()(しょう)貴人に付き従うこと)して蝦夷地に赴いた道中手(ひかえ)「蝦夷地開発記/鈴木周助」を発見したこと。
2 ) 津和野藩士宮崎(ゆき)麿(まろ)(明治維新後上京し、宮内省()(しょ)(りょう)に勤める)の仁助の履歴調査に関し、北海道に於ける事蹟は明瞭を欠き、その日付等についても諸説があって定まらず後来(こうらい)確実の記録世に出づるを待つ」に至っていること。
3)(きゅう)(めい)(こう)()巻之1」文化年(1807)刊では、乗ったはずの仁助のことが一つも見当たらない。

これらを踏まえ、岡宏三氏の紹介誌を参考に、仁助の事蹟の裏事情に何があったのかその真相に迫ってみたい。


堀田仁助泉尹由緒

生国芸州廿日市          伊藤嘉助伊藤嘉平衛次男

生国芸州廿日市          堀田仁助泉尹(いずただ) 嘉助の子 初 兵之助

天明二(じん)(いん) 御参勤御供被 仰付罷越 (中略) 出立前六月十一日 公儀暦作御用被 仰付

於江戸 公儀御役所罷出相勤申候


寛政五()(ちゅう)年四月十三日

御老中松平伊豆守様(より)御奉書御到来左之通

        亀井隠岐守家来

                堀田仁助 

    右、暦作御用手伝相勤候内、

      御扶持方五人扶持被下候間(おんふちがたごにんぶちくだされそうらえあいだ)

            可被得其意候(そのいそうらえべし)

右御扶持方被下置候趣、布施三郎右衛門殿被被渡候


寛政十一()()年三月十三日  御老中松平伊豆守様(より)御奉書御到来左之通

亀井隠岐守家来

            堀田仁助

右、先達而天文方江出役致候処、此度蝦夷地江御用

付被遣候間、其段可被申付候、尤掛り之面々可被談候

 右蝦夷地御用被差遣候趣牧図書殿被仰渡候


同年三月十九日右蝦夷地江罷越候御公儀御目録金拾両被下置候支度

次第出立可仕之処海上御用之儀御船新造出来(しゅったい)二付六月廿七日乗船仕十一月 

十五日帰府仕候

(以上「古代文化研究第17号」所収『資料紹介「蝦夷地開発記」と堀田仁助の由緒書 岡宏三』より引用)


蝦夷地(えぞち)取締(とりしまり)御用(ごよう)(がかり)任命

執政安藤對馬(つしまの)(かみ)(のぶ)(あき)()(そん)達は、書院番頭(ばんがしら)松平(まつだいら)信濃(しなのの)(かみ)(ただ)(あき)勘定奉行石川左近(さこんの)将監(じょう)忠房(ただふさ)()(つけ)()(ぶと)(しょう)()衛門(えもん)正養(まさやす)使番(つかいばん)大河内(おおこうち)(ぜん)兵衛(べえ)(まさ)寿(ひさ)勘定(かんじょう)吟味役(ぎんみやく)三橋籐右衛門(とうえもん)成方ら五人を蝦夷地取締御用掛に任命して、この地を幕府の直捌(じかさばき=直接経営のこと)とし、五人(ゆう)()(かん)())に従う諸役人七十名がそれぞれ決定され、警備と開発およびアイヌ民族の懐柔(かいじゅう)政策(せいさく)と一大事業に着手します。その後、幕吏(ばくり)の江戸出立(しゅったつ)が続きます。
蝦夷地取締御用掛の五人の(ゆう)()官吏(かんり))の筆頭に松平信濃(しなのの)(かみ)忠明が選ばれたことについては、寛政十年(1798)十二月に、幕府若年寄(わかどしより)堀田正敦(まさあつ)から老中(ろうじゅう)戸田(とだ)采女(うめの)(しょう)(うじ)(のり)に差出した伺書(うかがいしょ)にも、忠明の力量が、かようの御用に適していることを述べています。当の忠明も兼て蝦夷地の事に思い含めたる品もあって、蝦夷地開発のトップとして抜擢(ばってき)されたのです。忠明は禄高五千石、時に三十四歳でした。
こうした緊迫した北辺の状況の中、会所(漁場など)の運営、道路開削(かいさく)、橋建設、渡船場設置、宿駅・休所(やすみどこ)開設、人馬の配置、継送(つぎおく)り・陸路の整備により人の往来の自由を確立、迅速かつ大量の物資を移出入するため幕府は東蝦夷地への直通航路の開拓を急務としていたのです。

第一陣 御用舩「成徳丸」派遣
蝦夷地への往来は(ことごと)く沿岸航路に限る「地乗り(じのり)」で、陸岸の地形を参考にしながら陸地を視界に保って航行する沿岸航法でした。これは絶えず陸地の近くを航行するために効率の悪い航法です。これに対して幕府の望む「沖乗り(おきのり)」とは、陸岸から離れた沖合を直線的に進む方法であり、船の位置は天文航法で求める方法です。
寛政十一年(1799)三月末には、東蝦夷地の経営にあたる富山元十郎、高橋次太夫、松田仁三郎、()()同心露木元右衛門ら幕吏(ばくり)の第一陣が、江戸品川からアッケシまでの海上試乗として御用船「政徳丸」で急派されます。しかし気象条件が悪く、苫小牧西北の支笏湖の樽前岳を見て北上し襟裳岬を廻って、強風と霧で三ヶ月を要して六月二十九日にアッケシに着くという期待はずれの成果のない航海でした。

休明光記巻之1」の堀田仁助一行「政徳丸」乗船の錯誤のこと

昭和7年1月に発行された「蝦夷往来第9号」所収の「高倉・堀田仁助の蝦夷地海路測定事績」で高倉新一郎は休明光記巻之1」文化4年(1807)刊では、乗ったはずの仁助のことが一つも見当たらない。これらの疑問は、「蝦夷地開発記」の記事により氷解された。それは新船「神風丸」であると指摘しています休明光記巻之1」錯誤の個所)。
          

          
休明光記巻之1」錯誤の個所 ※拡大図


先に記した仁助の見習 鈴木周助「蝦夷地開發記」の日程(12/42頁)を見ると明らかです。



三月廿日立

御書院番 蝦夷御用掛 松平信濃守自身は、堀田仁助に寛政十一年(1799)三月十三日蝦夷地測量を命じ、自らは、三月二十日、寄合(よりあい)村上三郎右衛門、西丸小姓組遠山金四郎、西山書院番長坂忠七郎を差添(さしぞい)(付き添い)とし、蝦夷地の視察に赴きます。

三月十七日江戸出帆 御舩政徳丸上乗

富山元十郎、高橋次太夫、松田仁三郎ら幕吏(ばくり)


六月廿七日江戸出帆 御舩神風丸上乗天文方

渋川主水手傳 天文御用  堀田仁助

西丸小普請方書役粂右衛門(せがれ)  河村五郎八

仁助門人  浪人  深津小忠太

  見習    同   木村清蔵

   同    同   鈴木周助


◇堀田仁助に蝦夷地海路測定の幕命史料発見
堀田仁助の由緒(2~4頁)にある寛政十一()()年三月十三日付蝦夷地測定の幕命は、海道大学附属図書館 北方資料室のデータベース「休明光記」の「休明光記附録1」に見つける。
                     (休明光記附録1/ 羽太正養 59-60頁の原文を画像ソフトで1頁に加工)
                                    ※7行目に三月十三日とある

江戸とアッケシ間の航路、ことに本州から沖を乗切る船路は(いま)だ定まらず、蝦夷各地の位置も不詳で、針路を以て方角を定めて船をやることができなかったのです。 蝦夷地への迅速な物資輸送の急務を望み、船で海上から天文観測により方位を定め、江戸から厚岸間の東蝦夷地への海上直通航路を開くことに強い執念を持っている幕府は、寛政十一年(1799)三月、相州浦賀で朱塗唐風(からふう)「神風丸」一四六〇石積を新造します。松平信濃守は天文方を乗込ませ、測量図作成の任を御普請役(ふしんやく)並の待遇で堀田仁助に命じたのです。仁助由緒と同じく、寛政十一年(1799(さる)三月十三日のことで符合します。

しかし不思議なのは、五人の蝦夷地取締御用掛の当事者であるエリートの有司(ゆうし)たる()(ぶと)(しょう)()衛門(えもん)正養(まさやす)休明光記巻之1」錯誤の個所休明光記附録1」の書付とを全く無神経に錯誤していることです。

尚、『休明光記』(1807年刊)とは、()(ぶと)(しょう)()衛門(えもん)正養(まさやす)(1754-1814)が寛政十一年に蝦夷地取締掛を命ぜられてから、函館奉行、松前奉行として、蝦夷地経営の最高官僚であった時代の記録を要領よくまとめたものです。

休明光記」昭和53年刊によれば、公文書はその附録に記録しているようですが、「休明光記附録1」は県立図書館には所蔵されていません。

そこで探し求めた忠敬と蝦夷地派遣の幕吏たち 堀江敏夫」の活字体に起した「蝦夷地御用沖乗御船天文方差添差遺候儀申上候書付」を引用します。 http://www.inopedia.jp/img/f_users/r_107830742img20100511141040.pdf

此の幕命は津和野町・廿日市市両町史にも紹介されていない、貴重な史料と云えるその書付の詳細を見ると


亀井隠岐守に書面で趣旨を申し上げます。
云われた事を渋川主水にも伝えました。
文書の内容は全て了解致しました。  



六月廿七日晴未刻御舩神風丸出帆二付

大茶舩二艘[但し一艘五人掛 船頭一人水主四人宛] 御用之御印を付   
   ※茶舩 (河川や港で大型廻船の貨物の運送に用いた小船)

築地門跡へ着ス御用物積入但し御用物之御品左之通
  ヲランダ物   同断(ほかの物と同じ)
  天文御道具   イスタラビ   カトラント
   御遠目ガ子  御時計     御ジシャク
   〆五品

於 御本丸若年寄衆立花出雲守殿(より)堀田仁助へ
 御渡被成候其外長持一棹但し御紋付ユタン添御
 絵付御紋付高張二御紋付箱燈灯二其外堀田仁助
 持参之品左之通

   象眼義  二糸義  (こん)天義
天球   地球   星目鑑 [其外コマゝ十三品]

右茶舩江積入其外堀田仁助荷物(ならびに)弟子共之荷
物等積入申刻南風強二付築地稲荷橋江舟相廻ス
夜二入翌廿八日暁方順風二乗出し品川沖二懸在(かかりあり)

神風丸江乗移候

神風丸御舩今年相劦(そうしゅう)浦賀おゐて出来(しゅったい)スル新舩ナリ
御舩之長サ十九間半横中幅六間(とも)幅四間深サ三間   (■(とも) 船尾)

帆柱四尺角二テ長サ十八間半
帆幅二十七反[但し木綿三巾合テ帆巾一反トス]長サ十四廣三尺五寸
[但し一廣五尺宛]舮帆柱二本立
(とも)帆長二丈五尺横幅廣幅木綿八反宛有
舳先(へさき)()()
舳先帆長一丈五尺横幅唐幅木綿三反ナリ
傳馬舩長六間真中幅七尺二寸是も相劦(そうしゅう)浦賀二て出来(しゅったい)

御舩神風丸朱塗唐舩造り左之品カサリ置
五色之吹流一本御舩御用と書し(のぼり)二本神風丸御舩と書しノホリ二本帆四本立

上乗天文方御用堀田仁助 同門弟四人 川村五郎八 深津

小忠太 木村清蔵 鈴木周助 其外召使三人 上下〆八人 

御船頭三人 御船手頭向井将監殿組同心長川仲右衛門

長蔵長三郎 小野覚五郎 (ならびに)()()十七人 舟大工壱人

伊豆国之者作次郎 信劦(しんしゅう)木曾之者(そま)壱人三右衛門遠劦(えんしゅう)

より(そま)壱人久蔵 右両人ハ於蝦夷地椎茸出生見分之由

都合三十一人乗



  (蝦夷地開発記/ 鈴木周助 1516頁より 画像ソフトでイメージ加工)

三月十三日幕命より104()いよいよ出立(しゅったつ)

寛政十一年(1799三月十三日幕命を受け、六月廿七日出立する間の事情がなぜか空白です。


堀田仁助は三月十三日の幕命より、出立する三ヶ月もの期間の幕府との交渉、幕府からの指示、渡航に際しての測量器具の準備等の事情について一切触れていません。仁助の自筆文書などは残されていないので、仁助の“事に対する決意”、心情などは不詳です。
寛政十一年(1799)六月廿七日築地で乗船

翌廿八日、朱塗唐舩、二の丸の帆、御用旗、アヲ・クロ・アカ・シロ・キの五色の吹き流しをなびかせて、品川沖に停泊している派手な御用舩「神風丸」に乗込むのです。
此の度の船頭は天明(てんめい)以来御用船の船頭として蝦夷地各地を乗廻した手練(てだ)れ(腕利き)の長川沖右衛門や変わったところで蝦夷地名産の椎茸(しいたけ)を見分けに行く(そま)(木こり)が二人同船しています。

・・・・八月廿九日晴暁方蝦夷山速に見る夕方大黒嶋江入無程東蝦夷地アツケシと云所へ申刻入津春(にゅうつす)。

寛政十一己未(きび)年九月五日晴東蝦夷地悪消ゟ陸地通出立松前迄道法弐百五里程有

()()(こく)(これ)(まで)(なり)従是(これより)(だい)()(ほん)(こく)()(うち)
奥劦(おうしゅう)()(がる)(りょう)(みん)()()(みなと)()海上(かいじょう)(およそ)(じゅう)()(ほど)
(みん)馬屋(まや)(みなと)(より)江戸迄()道中記別紙有之(これあり)      
寛政十一()()年六月廿七日御舩神風丸に乗江戸出帆ス東蝦夷悪消(あっけし)と云所へ同年八月廿九日入津
(それ)
(より)陸地
松前通津軽南部仙臺(せんだい)掛り江戸

天文方御用堀田仁助門弟鈴木周助の手記 「蝦夷地開発記」は松前で筆を止んでいます。

堀田仁助は御用舩「政徳丸」の後塵(こうじん)を拝しました。蝦夷地へは二番乗りでしたが、「神風丸」による安全且つ迅速な東蝦夷地への航路開拓に於いては、六月二十七日築地を発ち、八月四日宮古湊に入津、逆風のため二十日程()(より)()ちをし、二十五日宮古湊を立ち、八月二十九日、五日でアッケシに到達。六十二日の航海で、政徳丸に1ヶ月もの短縮をしたので、成功であったと云えます。


その手記最終頁に、(みん)馬屋(まや)(現青森県三厩(みんまや)(みなと)より江戸迄()道中記(べっ)()有之(これあり) と記しています。この帰路が陸路であったことが後に問題になり、仁助の事蹟評価に大いに影響したのです。道中記別紙有之の件を北大北方史料室に電話で確認したところ、史料はいまだに確認されていないとのことなので未発見のようです。


◇歴史の陰に葬り去られた正に衝撃の真実のか


史料から知り得た事実、それは仁助が東蝦夷地航路開拓の翌年、寛政十二年(1800)「伊能忠敬の蝦夷地第一次測量 幕府への交渉記(測量日記第一巻)」四月七日の項上下段(下図加工図)にあります。そこには明らかに“仁助の功成り名遂げられぬ要因が行間から読み取れるのです。

 

伊能忠敬の「測量日記第1巻」4月7日の項 1112頁 


拡大図

寛政十二年(1800)四月四日 目付()(ぶと)左衛門より伊能忠敬の師高橋(よし)(とき)へ手紙、伊能()()()七日()()(どき)(午後十時頃)松平信濃守宅寄合へ差出すようにとのこと。
細身権十郎の案内で書院番頭(ばんがしら)松平信濃守忠明宅の奥の間へ(まかり)()で、信濃守、勘定奉行石川、目付()(ぶと)列席の次の間に()信濃守に「堀田と図」についていろいろ尋ねられるのです。
()()()海上は不得手の上、長々の船中は難渋と申し上げる。

()()()の本心は師高橋(よし)(とき)に指摘された「子午線一度の長さ(緯度一度の南北の長さ)」を求めることと、幕府(ばくふ)直捌(じかさばき)の東蝦夷地の警護のための精密な地図を作ることにあり、陸路でないと正確な測量ができないことから、船は難渋と官僚に丁重に断ったという、したたかさが垣間見えるのです。

その後信濃守は「海上測量は向後(きょうこう)(今後)御船通航之為、堀田仁助へ測量申付(もうしつけ)(いた)(させ)(そうろう)
(これ)(かえ)りは乗船致さず、陸を帰り(そうら)はば()(らち)()よし(おうせ)せらるる(そうらえ)・・・(中略)・・・
・・堀田仁助を存じ()(そうろう)()と再三(おうせ)らるる(そうろう)(あいだ)存候(ぞんじそうろう)申上候(もうしあげそうろう)。・・・(中略)


信濃守は今後の海上交通のため、堀田に船上での測量を命じたにもかかわらず、帰りは陸路とは不埒(けしからぬ)と激怒したのであろうか。・・・これが仁助の事蹟の致命的な評価の要因か・・。


先の「堀田仁助へ測量申付(もうしつけ)(いた)(させ)(そうろう)(これ)(かえ)りは乗船致さず、陸を帰り(そうら)はば()(らち)()よし(おうせ)せらるる(そうらえ)て・・・」とか蝦夷地取締御用掛松平信濃守の(げん)を忠敬が記録しているようですが、とくに()せないのは、何故、信濃守は、「()(らち)()」とか仁助の事績を否定するようなことを、わざわざ伊能忠敬に話すのかということです。

これには堀田仁助と伊能()()()の両師の天文方内部における権力関係が色濃く反映されているとしか考えられません。
信濃守と高橋(よし)(とき)の策略が裏に存在するのではないか
忠敬は寛政十二年二月から四月十四日、広義(こうぎ)のお(すみ)()を得る二ヶ月の間、幾度となく蝦夷地取締御用掛の松平信濃守、石川左近(さこんの)将監(じょう)()(ぶと)庄左衛門などと会合し、最大の課題である海路を陸路にと、結局はよきに計らってもらっているのです
一番船の「政徳丸」の失敗に、主流派の高橋至時派を派遣し、再び失敗するようなことがあれば、蝦夷地取締御用掛松平信濃守らは、その面子(めんつ)を保てない。露払(つゆはら)いとして仁助が万が一失敗しても、斜陽の名のこと(ゆえ)と言い逃れできる逃げ道を確保しつヽ、功名は求めたい心情であったのではないかと考えます
当時、渋川正清(まさきよ)((もん)())のもとで十六年間、暦作御用として補佐していた仁助を、幕府天文方として東蝦夷への直通航路を開拓するための大事業をなすため、名もなき身分でありながら、その(みち)の専門家として乗り込ませたのには、このような背景があったと考えられるのです。

渋川正清(まさきよ)((もん)())の履歴を調べて此の思いに至ったのです。
()しくも、寛政の改暦で辛酸(しんさん)()めた仁助の師・渋川正清(まさきよ)((もん)())、五十二歳の仁助が出帆予定の十二日前、寛政十一()()六月十五日 五十六歳で没するのです。この時松平信濃守は松前に滞在しています。
この事実を知った時、師の喪に服したいと思いつヽも、幕命には従わざるをえない失意の仁助と派閥に翻弄(ほんろう)された仁助の運命のなんという仕打ちかと愕然(がくぜん)としたのです。

2012/4/5追記)

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