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平相国清盛などについての記録

江戸時代末期平相国清盛(たいらのしょうこくきよもり)御心霊(おしんれい)は、「三王社」に(まつ)られていた!!


戸中期1697年「厳島道芝記(いつくしまみちしばき)」、1825年「芸藩通志(げいはんつうし)」、1837年「芸州厳島図会(げいしゅういつくしまずえ)」と当時の様子を知り得る本に、平清盛(まつ)山王社(さんのうしゃ)や祭についての記述および厳島文書(いつくしまもんじょ)の記録がある


1、       山王 御社御殿三社  拝殿 瑞籬(みずがき) 鳥居.

御社(おんしゃ)南向(みなみむき)()のあたりをば(さか)(もと)といふなり、中の(やしろ)江州(ごうしゅう)(近江国(おうみのくに))滋賀郡(しがごおり)(さか)(もと)山王(さんのう)勧請(かんじょう)しける故に坂本(さかもと)といふにや。左右の御社(おんやしろ)は当島において口決(くけつ)ある御神(おんかみ)といひ(つた)。今鎮座((二))の翌日(とり)の祭と申すは此の(やしろ)なり(なお)年中行事あり。(「厳島道芝記(いつくしまみちしばき)(まきの)二) [注]瑞籬(みずがき)とは「玉垣(たまがき)」のこと口決(くけつ)とは文書に記さないで、口で直接言い伝える口伝(くでん)のこと

酉の祭 翌日とりの日山王社(さんのうしゃ)にて厳島上卿(しょうけい)祝師(ものもうし)六家(ろっけ)両棚守(りょうたなもり)出仕(しゅっし)(さかき)(まい)あり。(「厳島道芝記」巻六)

山王社 本社の東、坂本にあり。社前、拝殿、鳥居あり。(たいらの)相国(しょうこく)(くばり)(まつ)る。又佐伯祖神をも、配祭(はいさい)すといふ。古文書に、大伴神社、ありて今ハ其所在を失ふ伴と、佐伯ハ、同姓なりと、いへれバ、此佐伯祖神(これさえきそしん)といへるハ、(すなわち)大伴(おおともの)(かみ)にてハ、なきやとおもハる。(「芸藩通志(げいはんつうし)」巻十四)

4、山王社祭 二月、十一月、上酉(かみとり)の日、祀官(しかん)内侍(ないし)神楽男(かぐらおのこ)、仕入、配膳、相会(あいかい)し、神供(しんく)を献し求子(もとめご)()ひをなす。九月廿((三か))日にも、祭奠(さいてん)、舞楽あり。古文書に相国(しょうこく)(さい)のこと見ゆ(この)(まつり)(こと)なるべし。当社、平相国を(くばり)(まつる)といふ。(「芸藩通志(げいはんつうし)」巻十四

、山王社 本社の東、坂本にあり。祭神(さいじん)(さんざ) 中央は江州志賀郡坂本山王を勧請(かんじょう)す。其餘(そのよ)二座は平相国清盛(たいらのしょうこくきよもり)佐伯(さえき)祖神(そしん)(まつ)るといふ。其證(そのしょう)さだかならず。例祭二月(とりの)()此日(このひ)上卿(しょうけい)祝師(ものもうし)六家(ろっけ)両棚守(りょうたなもり)出仕(しゅっし)(さかき)(まい)あり〉(「藝州嚴島圖會(げいしゅういつくしまずえ)」巻之二)。

ところで明治四十三年になる重田定一「厳島誌」では、今は佐伯鞍職、岩木翁、所翁を祀ると云ふとある。

6、酉日御祭 初申(はつさる)の翌日山王社にて(これ)を行ふ。上卿、祝師、両棚守出仕、(さかき)(まい)あり。(「藝州嚴島圖會(げいしゅういつくしまずえ)」巻之五)

 (1)山王社 比叡山の日吉(ひえ)大社(たいしゃ)分霊社(ぶんれいしゃ)である。維新政府は、明治元年三月二十八日神仏(しんぶつ)混淆(こんこう)を禁止し、寺院と神社を分離するように命じる神仏(しんぶつ)判然令(はんぜんれい)を発布した。そこで神社の名前に仏に関係のあるものがあっては認められないので名前だけ変えて存続させたのが(さん)(おきな)神社(じんじゃ)である。

(2)鎮座祭 二月初申(はつさる)の祭りともまた山口開祭とも云ふなり。

 以上のことから、山王社についてわかることは、

1、日吉大社(ひえたいしゃ)山王社(さんのうしゃ)勧請(かんじょう)した。 

2、島内の坂本と云う地にある。

3、二月(はつ)(さる)の日の翌日初酉(はつとり)の祭を山王社で行っていた。

4、「4の山王社祭」の記録から、江戸時代末期には、山王社に平相国清盛(たいらのしょうこくきよもり)御心霊(おしんれい)(まつ)られていたことがわかる。

現在は
西の松原の「清盛神社」に祀られている。
         
このページに山王社や清盛神社の位置情報記載あり。


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