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平頼盛寄進状寫
(たいらのよりもり きしんじょううつし)

平頼盛(たいらのよりもり)は、平安時代末期の平氏一門の武将・公卿。平忠盛の五男。母は修理大夫・藤原宗兼の女、宗子(池禅尼)。通称は池殿池大納言。平清盛の異母弟。

清盛は忠盛の長子だったが生母はすでに死去していたため、宗子の産んだ五男の頼盛は家盛の同母弟といっても清盛とは15歳の年齢差がある。

長寛2年(1164)、清盛が装飾経33巻(『平家納経』)を厳島神社に奉納した際は、重盛(清盛の嫡男)経盛(つねもり)教盛(あつもり)(忠盛の三・四男)らとともに頼盛(34歳)も書写に携わった。『平家納経』の中の「提婆品(だいばほん)」は頼盛の直筆とされる。

仁安3年(11681018日、頼盛(36歳)はついに待望の参議となるが、無断で厳島神社に参詣等ほかの理由でわずか一月後の1128日、子の保盛とともに全ての官職を解官されてしまう。

解官の背景には、独自の動きを見せていた頼盛を完全な統制下に置くことで、重盛の地位を守ろうとする清盛の意思が介在していたといわれる。

仁安3年(11681018日、参議となった同日付で頼盛は厳島社に仏舎利一粒を奉納す。

治承3年(11791227日、権中納言頼盛(47歳)は厳島社参詣二十度に及ぶ。

平氏一門、後白河院近臣、親源頼朝派という複数の顔があった頼盛は、文治2年(118662日、54歳で死去した(『吾妻鏡』618日条)。

平氏一門、後白河院近臣、親源頼朝派という複数の顔があった頼盛は、文治2年(118662日、54歳で死去した(『吾妻鏡』618日条)。

九条兼(くじょうかね)(ざね)頼盛の死を日記・「玉葉(ぎょくよう)に記すことはなく、その死は周囲から忘れ去られたひっそりとしたものだった。



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