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トップ 廿日市再発見  寺社 津和野藩御船屋敷

津和野藩御船屋敷

(つわのはんおふなやしき)



 元和六年(1620)石州津和野藩亀井家廿日市に「船着ノ蔵屋敷」を置いた。この時代はまだ参勤交代などに利用できるような宿泊施設
はなく、廿日市商人 鳥屋七郎右衛門宅へ宿泊していた。しかしなにかと不便につき、廿日市内へ宿泊施設を望んだ津和野藩は、御往来御
本陣鳥屋市右衛門・廿日市庄屋山田治右衛門両人を仲介にして広島藩へ用地の提供を願い出た。
「寛永七年(1630)十一月御相談首尾能相整御許容之御返答有之、・・・・」と許可の回答あり・・・・
翌年、津和野藩から願い出された廿日市船屋敷地が、寛永八年(1631)五月十八日、次の通り許可・受け渡された。
 桜尾之方屋敷東側       竹薮之方四十間
 御方大屋方            北之方五拾三間
 廿日市町之方          西之方五拾三間
 浜之方               南之方五拾四間半
 御船入ハ桜尾城山林麓東之方
 湊岸畑よりエボシ岩迄沖之方三十三間
 湊岸畑柱横七間半
 山之手百拾九間
 エボシ岩横二十間

 寛永八年(1631)以降、桜尾城址(いまの桂公園)の西200b位の所に、石州津和野藩御船屋敷が設けられた。
参勤交代など上方との往来には日本海ではなく、陸路津和野を発ち、津和野街道を南下し、六日市本陣、大原本陣、廿日市の船屋敷に止宿、
この船屋敷がいわば下屋敷でここを中継して瀬戸内海を海路兵庫県室津まで往来していた。
船入地は桜尾山東麓のエボシ岩あたりに置かれていたが、明暦二年(1656)船入地移転が認められ、船入地・御船屋は、桜尾山
北側で西国街道に面した位置に移転された。


大明神(いなりだいみょうじん)

津和野 太谷稲神社の分身を祀る稲大明神は、津和野藩御船屋敷に祀られていたもので石碑より西方へ2・30メートルの角に祀られてある。
石燈籠に寛政三年(1791)の寄進とある。

(註)津和野 太谷稲神社      
大明神(いなりだいみょうじん)

                                       


@桜尾山   かっては桜尾城 厳島神社神主家の居城であった。慶長五年(1600年)関が原の戦後、毛利氏が防長へ転封(領地の移し換え)になり、毛利氏支配の終焉に伴い、桜尾城は次第に荒廃していき、樹木が生い茂る小高い山に成り果てる。そして広島藩の御建山 (おたてやま) となった。承久三年(1221)鎌倉幕府御家人 藤原親実以来、約400年続いた桜尾城の幾多の歴史はここに静かに終わりを告げる

の後城址は、大正元年(1912)桂元澄の子孫、総理大臣三回(第一次1901から第三次1908年):経験の桂太郎氏(山口出身)が廿日市に寄贈し、昭和42年頃約30bの標高の桜尾城址は10bくらい削られ阿品 (弘治元年厳島の合戦で毛利元就が風雨をついて厳島包ヶ浦に向け出立した火立岩の近く) の埋立に使われ、桂公園として市民の憩いの場となっている。 

A西国街道に沿そって長屋門、奥に番所、役人小屋、船頭や水主(かこ・乗組員)の長屋などからなる津和野藩の御船入(おふないり)の港があり、住吉丸(三三○石こく)・吉祥丸(二五○石こく)・御紙船ほか二三隻が兵庫県室津までの海路のため、係留されていた。

船屋敷の船は参勤交代のほか、津和野藩特産の虫がつかないと評判の楮(こうぞ)の和紙が津和野街道を通って廿日市に運ばれ、船屋敷の御紙蔵(おかみぐら)に入れられ、大坂方面に売り捌(さば)くため使用された(当時は大阪とは書かない)。

B桜尾城址の西麓に石州津和野借屋鋪
元和(げんな)六年(1620)、広島藩との合意のもとに東西五十間、南北三六間の「船着ノ蔵屋敷」が設けられたが、宿泊施設は整っておらず、廿日市の島屋七右衛門方を定宿としていた。しかし不便なためにに寛永八年(1631)ころに船屋敷として整備された。

屋敷内には、御殿、船蔵、土蔵、御紙蔵(おかみぐら)、定詰長屋(じょうづめながや・・一定の場所に勤務するために生活する長屋)などの施設が建てられ、元文元年(1736)ころには、九三人の家中が居住していた。

C西国街道


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