江戸一の大歓楽街 -吉原と川柳- |
その壱 |
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江戸時代、江戸市中で唯一公許であった遊廓を、吉原という。 |
『元吉原』現在の東京都中央区日本橋人形町の葭(よし)の生い茂った沼地を埋立て作ったので、「葭原」と呼ばれていた。 |
明暦(めいれき)の大火により焼失したことから『吉原』といえば『新吉原』を指す。 |
四代将軍 徳川家綱(いえつな)の時代、明暦三年(1657)、幕府の命により移転し、現在の東京都台東区千束四丁目 |
(浅草寺裏)に移転したのが『新吉原』である。 |
その後『吉原遊廓』は昭和三十三年(1958)二月二十八日の閉鎖まで341年間、同じ場所に存在した。 |
売春防止法は昭和三十二年(1957)四月一日に施行された。 |
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吉原は遊女の逃亡を防ぐため四方を掘り(お歯黒どぶ)で囲い唯一の出入り口は大門(おおもん)だけであった。 |
昼夜の差別なく、年中出入りする大門は、屋根がある黒塗り木造で、扉は明け方に開き、夜は四つ時(10時)に閉めるの |
が規定となっていて、その後は左右の袖門(そでもん)から出入りをさせた。 |
関門を通れば、右手に、廓の出入りを監視するいわゆる四郎兵衛の会所があり、また左方には、与力同心の手先が非常 |
を警戒するため詰めている番所があった。元吉原時代には、庄司甚右衛門が総名主を勤めていたが、新吉原になって、 |
三浦屋四郎左衛門か゜この任に当り、三浦屋の傭人(ようにん) 四郎兵衛を定詰めとしたのが始まりで、代々四郎兵衛 |
の名が世襲となったのである。 |
黒塀の内に四郎兵衛座ってゐ |
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極楽と娑婆(しゃば)の関門には、滑稽が絶えず散見される。 |
大門を出ると思案にけつまづき |
大門を出ると女房が怖くなり |
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夜四つ頃(10時)になると、仲之町や大門へ禿(かむろ)が出張っていて、馴染みの客を鵜の目鷹の目で物色し、それと見れ |
ば否応なしに、連れて行こうとした。 禿(かむろ)とは、親や身内が貧窮のためなど父母恋しい七、八歳のまだいたいけざか |
りを女衒(ぜげん)・・・(遊女の口入を業とする者で、容色(きりょう)よき年頃の娘をもった貧しい者があれば、わずかな金子 |
(きんす)を融通して、親切らしく持ちかけて、親や娘を巧に説き落し、結局身売りをさせる。)・・・の手に渡って哀れにも売られ |
て来るのである。 |
親の為禿も孝の二た葉なり |
禿に掴まると入墨では済まず |
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親父の命日で、きょうは寺詣りの戻りだ、許してくれと逃げんとする者もいる。 |
死ねばって放しはせぬと禿云い |
羽二重の急所を禿引っつかみ |
禿を袖にぶらさげて逃げるなり |
ユウモアな場面を想像できる。 |