江戸一の大歓楽街 -吉原と川柳- |
その弐 |
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日本堤(にほんつづみ)より五十間道への下り口を衣紋坂(えもんざか)と称して、廓(くるわ)へ入り込む多くの |
嫖客(ひょうかく)・・・(遊里に浮かれ遊ぶ者)は、自然このあたりで衣紋を繕(つくら)うとの意味で斯(か)くは名 |
づけられたものであった。 |
よくむごくしたと追つつく衣紋坂 |
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酒勢に乗じ、若い連中が四五人誰の発議ともなく、浮かれこもうとする相談が一決して、今、衣紋坂まで来か |
かると、一味に洩れた一人が、追っ駆けて来て、参加するの意。 |
極楽とこの世の間(あひ)が五十間 |
日本から極楽僅か五十間 |
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日本とは、日本堤のことで、五十間道を過ぎれば、そこは極楽の世界だと洒落たのである。 |
日本堤から大門(おおもん)までの往来路は、三曲にくねっていて、大門を見透かしにせず、その距離が、 |
ちょうど五十間あるところから五十間道と称せられたもので、明治30年(1897)頃から石畳の通路となった。 |
こんな腰ありと出口に植えて置き |
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名残り惜しい後朝(きぬぎぬ)・・・(男女が互いに衣を重ねて共寝した翌朝、別れるときに身につける、それぞれ |
の衣服。)の、別れて戻る道すがら、その面影が幻のように眼にちらついて、人知れず微笑みながら振り返れば |
緑濃き土手の葉柳なよなよと招くが如く暁の風に靡(なび)いている。 |
見返り柳を妓(ぎ・・・遊女)の細腰に譬(たと)えて、この廓(くるわ)に美人がいると云うのである。 |