紀行作品から当時の宮島の様子を読み解く

塵壷(ちりつぼ)
  
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河井継之助
西方遊学旅日記
安芸之宮島編

宮島ゆかりの人物
河井継之助(かわいつぎのすけ)とは  -幕末の長岡藩士-  河井継之助  塵壷(1)
文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日)  河井継之助  塵壷(2)
父河井代右衛門の子として長岡城下に生まれた。名は秋義。幕末期の越後長岡藩牧野  二条 とはずがたり
家の家臣である。「継之助」は幼名・通称で、読みは「つぐのすけ」とも「つぎのすけ」とも 後白河院 梁塵秘抄口傳集
読まれる。地元長岡では「つぎのすけ」と呼ばれている。
諱(いみな・・・実名)は秋義(あきよし)。号は蒼龍窟。禄高は120石。 戻る
嘉永3年(1850年)二十三歳の時に梛野嘉兵衛(250石、側用人)の妹・すがと結婚する。 Homeへ
嘉永五年(1852)秋二十五歳のころ、最初の江戸遊学をし斎藤拙堂、古賀謹一郎(茶渓)
佐久間象山らの門をくぐる。
翌嘉永6年(1853年)アメリカ合衆国 海軍 東インド艦隊が、日本の江戸湾 浦賀に黒船来
航すると当時老中であった藩主忠雅は家臣らに対し広く意見を求めた。継之助の建言は
藩主の目に留まることとなり、新知30石を与えられて御目付格評定方随役に任命され、帰
藩を命じられた。
藩政の刷新を企図し帰藩した継之助であったが、藩主独断での人事に反感を持った家老
など藩上層部の風当たりが強く、結局何もできないまま2ヶ月ほどで辞職する。
安政5年(1858年)三十一歳で家督をついで外様吟味役になる
安政6年(1859年)正月、継之助は再び江戸に遊学し、古賀謹一郎の久敬舎に入る。
そして長岡藩の富国強兵、財政建て直しを目指していた継之助は、さらなる経世済民の学
を修めるため、備中松山藩(岡山県高梁市)の財政を立て直した陽明学の山田方谷(やま
だほうこく)にその術を学ぶ為教えを請いに私費で西方遊学の旅にでたのである。

        河井継之助           旅日記 「塵壷 ちりつぼ」

安政六年(1859)六月七日江戸を出発し、七月十六日備中松山着、翌山田方谷宅に入る。
初めこそ、農民出身の山田方谷に対して尊大(そんだい・・・いかにも偉そうな態度をとる)
な態度に出ていた継之助であった。しかし、山田方谷の言行と彼が進めた藩政改革の成果
を見て、すぐに態度を改めて深く心酔するようになる。修養に励む間、佐賀や長崎も訪れ、
知見を広めた。翌年3月、備中松山の山田方谷の許を去って江戸へ戻り、しばらく横浜に滞
在した後、長岡へ帰郷した。1868年の5月2日小千谷談判の決裂で起こった北越戊辰戦争
にて、軍事総督として長岡藩軍を指揮。その後長岡城は落城。会津方面へ敗走したが、八
丁沖潜行作戦時に負った左足の傷がもとで、八月十六日(10月1日)午後八時ごろ、破傷
風により、塩沢村(現福により、塩沢村(現福島県只見町)にて42歳の生涯を終える。

 
継之助は会津へ向けて八十里越を越える際、「八十里 腰抜け武士の 越す峠
という自嘲の句を詠んでいる。腰抜けについては、越(こし)つまり越後を抜けるの意もある
という。十倍にも感じられる、八里の急峻な峠を被弾して深い疵を負って新政府軍に劣勢と
なり、落ち延びている現状を強情な性格の継之助には、心身共に苦しく、耐え難い心情に
あったのであろう。結果として継之助は戦死し、北越戊辰戦争は敗戦。賊軍の汚名を着せ
られたが、北越の英雄として語られている。

安政六年(1859年6月7日に備中松山藩へ向けて江戸を発ち、この西方遊学の様子を旅
日記として書き綴っていたのが「塵壷(ちりつぼ)」なのである。
長岡藩士継之助の「塵壷」には、継之助が幕末の宮島を訪ねた折の見聞を日記に記した。
それを読み解く事で当時の宮島の様子を伺い知ることができる貴重な史料である。

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