トップ 安芸の国宮島を知る 二条とはずがたり


  紀行作品から当時の宮島の様子を読み解く

とはずがたり  二条
安芸之宮島編

宮島ゆかりの人物
二条とは  正嘉二年(1258)- 河井継之助  塵壷(1)
後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう)と云い、大納言久我雅忠(こがまさただ)〔1228 河井継之助  塵壷(2)
~1272年〕と後嵯峨院大納言典侍(四条隆親の娘)の娘で、後嵯峨天皇(ごさがてんのう) 二条 とはずがたり
の第二皇子(出家したものも含めると第四皇子)の第八十九代後深草天皇(ごふかくさてん 後白河院 梁塵秘抄口傳集
う)〔1243~1304〕に仕えて二条と称した名門貴族出身の才女である。
2歳で母を亡くし、後深草天皇は17歳で譲位。4歳から後深草上皇の御所で育ち、14歳 戻る
のとき後深草院御所の新年に父久我雅忠、御楽の儀式(おくすりのぎしき・・・正月三ヶ日に Topへ
天皇・上皇などが邪気を払うために屠蘇(とそ)・白散(びゃくさん・・・屠蘇(とそ)の一種。山椒
(さんしよう)・防風(ぼうふう)・肉桂(につけい)・桔梗(ききよう)・細辛(さいしん)などを刻んだもの)などを
服用する儀式)に参り、院が父に「この春よりはたのむの雁もわが方よ」とて賜い、何とやら
ん、父と忍びやかに、お前の娘を私になと、密約を交わし、17日に院の寵愛を受ける。
こうして二条は、後深草院の養女から側室となった。
その後、二条は31歳ごろ出家し,鎌倉,伊勢,奈良,厳島,などへ修行の旅に出る。

とはずがたりとは
作者14歳の文永八年(1271年)から49歳の徳治元年(1306年)までの記事を含んでおり、
二条50歳の頃、徳治二年(1307)から正和二年(1313)56歳の頃までに成立したらしい。
5巻5冊
第1巻:二条は2歳の時に母を亡くし4歳からは後深草院のもとで育てられ、14歳にして他に
     想い人「雪の曙」がいるにも関わらず、後深草院の寵を受ける。 院の子を懐妊、程
     なく父が死去。皇子を産む。後ろ楯を亡くしたまま、女房として院に仕え続けるが、雪
     の曙との関係も続く。雪の曙の女児を産むが、他所へや る。ほぼ同じ頃、皇子夭逝。
第2巻:粥杖騒動と贖い。「有明の月」に迫られて契る。女楽で祖父の兵部卿四条隆親と衝突。
     「近衛大殿」と心ならずも契る。
第3巻:有明の月の男児を産むが他所へやる。有明死去。有明の男児を再び産むが、今回
     は自らも世話をする。御所を退出。
第4巻:尼となったのちの日々。熱田神宮から、鎌倉、善光寺、浅草へ。八幡宮で後深草法皇
     に再会。伊勢へ。
第5巻:厳島へ、後深草院死去。跋文(ばつぶん・・・あとがき)。


とはずがたり  巻  五
原文
 出家して尼僧姿の二条45歳の頃、安芸の厳島へと長い船旅に出立し
乾元元年(1302)九月十日頃? 厳島に到着

 さても、安芸国厳島(1)の社は、高倉の先帝も御幸(2)し給ひける、跡の白波もゆかしくて、思ひ立ち
侍りしに、例(3)の鳥羽より船に乗りつつ、河尻(4)より海のに乗り移れば、波の上の住まひも心細きに
(途中省略)
とかく漕ぎ行くほどに備後の国鞆(5)といふ所に至りぬ。
 何となく賑ははしき宿と見ゆるに、たいが島(6)とて離れたる小島あり。遊女の世を遁れて、庵並べ
て住まひたる所なり。
(途中省略)・・・暮るれば契りを待ち、明くれば名残りを慕ひなどしてこそ過ぎ来しに、思ひ捨てて籠も
りゐたるもありがたくおぼえて、「勤めには何事かする。いかなる便りにか発心せし」など申せば、ある
尼申すやう、「われはこの島の遊女の長者なり。あまた傾城を置きて、面々の顔ばせを営み、道行く人
を頼みて、とどまるを喜び、漕ぎ行くを嘆く。(途中省略)五十に余り侍りしほどに、宿縁や催しけん、
(途中省略)この島に行きて、朝な朝な花を摘みにこの山に登る業をして、三世の仏に手向け奉る」な
ど言うも、うらやまし。これに一、二日とどまりて、また漕ぎ出でしかば、遊女ども名残惜しみて、「いつ
程にか都へ漕ぎ帰るべき」など言へば、「いさや、これや限りの」など(途中省略)・・・・

 かの島(7)に着きぬ。漫々たる波の上に、鳥居遥かにそばだち、百八十間の廻廊、さながら浦の上
に立ちたれば、おびただしく船どももこの廊に着けたり。大法会(8)あるべきとて、内侍(9)といふ者、
面々(10)になどすめり。九月十二日、試楽(11)とて、廻廊(12)めく海の上に舞台を建てて、御前(13)
の廊より上る。内侍八人、皆色々の小袖に白き湯巻(14)を着たり。うちまかせての楽どもなり。唐の玄
宗の楊貴妃が奏しける霓裳羽衣(15)(げいしょううい)の舞の姿とかや、聞くもなつかし。
 会の日は、左右(16)の舞、青く赤き錦の装束、菩薩の姿に異ならず。天冠(17)をして簪をさせる。これ
や楊妃の姿ならんと見えたる。暮行くままに楽の声まさり、秋風楽(18)ことさらに耳に立ちておぼえ侍
りき。暮るる程に果てしかば、多く集ひたりし人、皆家々に帰りぬ。御前も物淋しくなりぬ。通夜(19)
たる人も少々見ゆ。十三夜の月、御殿の後の深山より出づる景色、宝前(20)の中より出で給ふに似た
り。御殿の下まで潮さし上りて、空に澄む月の影、また水の底にも宿るかと疑はる。
(途中省略)
 これには(21)幾程の逗留もなくて、上り(22)侍りし。


hikogの訳
ところで、安芸の国 厳島神社は先の帝(みかど)、高倉院も御幸(みゆき)された。その昔の跡も慕
わしくて、参詣を思い立ちましたので、通例通り京の鳥羽の船着場から船に乗って、河尻海を行く船
に乗り換え、波に揺られ、海が空恐ろしくて、船の底板一枚に座っているのが心細かったが・・・・
(途中省略)
あれやこれやと船は漕ぎ、帆に風を一杯受けて進み、賑やかそうな湊が見えてきた。二条は誰かに
教えられたのであろうか、出船、入船、潮待ち船で賑わうその備後の国 鞆の湊に船は静かに入っ
て来た。湊のすぐ沖合いに浮かぶ、たいが島(大可島この島には世を遁(のが)れた遊女たちが
庵(いおり・・・質素な建物)に住んでいた。そのなかに島の遊女たちの元女主人が尼になっており、
どんなきっかけで尼に発心したのか、宿縁(前世の因縁)が心を動かしたのか、二条は、自分の波
乱だった人生と元女主人や遊女たちの生き方との語り合いで、貴族の出自であった自分も遊女たち
と同じ境遇であったのかという思いで、この島に一、二日滞在を延ばしている。
(途中省略)
二条はこうした遊女たちとの語らいで心を合わせたが、船出に際し、名残り惜しむ遊女たちは、「い
つほどにか都へお帰りの予定ですか」と聞けば、「さあ、わからないけど、これが最後の旅かも」と答
え厳島へと船で旅立ったのであった。

厳島神社のある宮島に着いた。(九月十日頃)   (着きぬ時間は不詳である。)

(九月11日)はるばると続く波の上に、鳥居が高くそびえ、百八十間の廻廊が、そのままそっくり
海の上に建っているので、九月十四日秋の例祭 大法会を見物のために数多くの船が、すでに
この廻廊に横着けしている。もしかすると、廻廊に近寄れない船は、有の浦に停泊しているやも。
厳島神社の神事の秋の一大イベント故、瀬戸内各方面から大勢の船や人で島中は、大法会のこ
とで持ちきりで、ごったがえすほど喧騒の中、賑わっているのであろうか。
日中に十四日の大法会に向けて内侍はめいめい練習をしているようだ。

九月十二日、
新嘗供 秋来の御供の神事・祭礼に当る日である。廻廊のように社殿を取り囲む海の上に舞台
を設え、社殿の正面の廻廊より舞台へ登場する。内侍八人・・・八乙女の本内侍?・・
みんな色々の袖の小さな衣の上に湯巻(女房の略装)を着て、曲は、普通の音楽であるが、唐の
玄宗の愛人楊貴妃が奏したという舞曲の一つで、玄宗が夢に天人の舞いを見て作曲した霓裳羽
げいしょうういの舞を見て過ぎ去りし日のことを想いめぐり、聞くも見るものたいへんなつかしいと
感じた。

九月十三日記載なし   (その後の調査により2008/5/31に下記記述の結論・・・・日付の
               ない紀行文の日にちを推測すると
の九月十三日の項にて訂正す。)
いよいよ厳島神社の神事の秋の一大イベントの日 九月十四日を迎えた
法会の日は左の舞は唐楽の舞、右の舞は高麗楽こまがくの舞。青や赤の錦の美しい装束は、菩
薩の姿といっしょである。頭上に天冠をして簪かんざしをさしのが、これが楊貴妃の姿であろうと見え
た。西の大野の瀬戸の裏、経小屋山きょうごやさんや城山に夕陽がかかり、暮れ行くにつれて楽の音
が澄みわたり、四人が舞う秋風楽という雅楽の曲は,とりわけ耳にとまるように感じられたのです。
すっかり暮れて法会が終わると、多くの見物に集まった人々は、「あの○○という内侍はきれいじゃっ
たの~う」とか、「衣裳が鮮やかで、ほいでから舞も曲も優雅だったよの~う」とか話しながら、観劇
の余韻に浸りながら、ぞろぞろと皆夫々家に帰って行った。ふと我に返りると、社殿も先ほどのきら
びやかな世界からいつもに戻り、少しひっそりとしていた。そうした中に、神社に夜通し参籠さんろう
(こもって祈願する)する者も何人かいるように見受けられた。十三夜の月が、社殿の後の深山(み
やま・弥山みせん)より上って出る様子は、社殿の前庭より出ているようだ。社殿の下まで潮が満ち
てきて、海の水面みなもに社殿や社廊が浮かぶ中に、雲もなく空に澄んだ月の影が、浮かんでいる
ので、本当に海底に月があるように思われる。
(途中省略)
それほどまでも厳島には滞在せず、大法会の翌日か遅くても翌々の十六日には、京の都へと帰途
に着いたのです。

「注」
(1)  安芸国厳島 あきのくにいつくしま
現広島県廿日市市宮島町  厳島神社いつくしまじんじゃ
(2) 高倉の先帝も御幸 たかくらのせんていもみゆき
「高倉院厳島御幸記」の帝で、治承四年三月二十六日厳島に到着され、二十九日御宮巡りの後離島
された。
天皇が外出することを行幸(ぎょうこう、みゆき)または、御幸(みゆき)と言う場合もある。
目的地が複数ある場合は特に巡幸(じゅんこう)という。
外出先から帰ることを還幸(かんこう)という。
(3)
通例通り。 京都南部 鳥羽にあった船着場から西国への船旅は出立していた。
(4) 河尻 かはじり
785年(延暦4)、西海への最短距離として淀川下流に三国川(神崎川)が開削された。淀川よりの分
岐点を江口といい、西海への入口を河尻(大河尻)と呼んだ。都と西海との往来が盛んとなるにつれ
舟泊まりとして繁栄した。当時の身分・階級社会の中にあって、ここばかりは貴賎を離れた唯一の交
歓地点となり、種々の庶民的文化芸能を生み出した。西宮の傀儡子(くぐつ)や遊女町の系譜も、この
河尻にある。
(5) 備後の国 鞆 びんごのくに とも
福山市の風向明媚な瀬戸内海海上交通の要津 鞆のこと。
鞆の湊は古くから交易の湊、「潮待ちの湊」として栄えてきた。東の紀伊水道、西の豊後水道からの
満ち潮が鞆の沖合いでぶつかる。その潮に乗って、船は鞆の湊へ入り、引き潮に乗って再び船出し
て行くのである。
(6) たいが島
大可島(たいがしま)は、二条が鞆を訪れた40年後に、ここは南北朝時代鞆争奪の古戦場となった。
現在は陸続きとなり円福寺が建てられているが、かつては鞆の沖合いに浮かぶ島であり、そこに大可
島城があった。今は鞆の湊に出入りする南端の入口のようで、風・潮避けの防波堤のように見受けら
れる。
(7) かの島
厳島神社のある宮島を指す
(8) 大法会 だいほうえ
大法会(だいほうえ)とは、仏教において仏法を説くためや供養を行うための僧侶・檀信徒の大規模
な集まりである。
次ぎの行に「九月十二日、試楽・・・」とあるので、十二日以降の大祭といえば、十四日の「大宮御祭」
のことではないかと、推察する。

【資料1】 宮島町史 Ⅰ 厳島道芝記巻六 P197 より引用すると、
[注]年中行事について、その起源乃至挙行時代の詳細は触れられておらず不詳。

   九月一日
外宮御供  両社御前御供  仁王經(げぐうごくう りょうしゃごぜんごく におうきょう)まえのごとし
   三日
外宮御祭(げぐうおまつり) 御供奉る。厳島社家中海儀式五月に同し。三日より九日まで大宮棚守
         楽方その外社籠朝暮に楽あり。神輿御出五月のことし。供僧権座主三日より七日迄釈
       迦堂に籠こも り大般若勤行だいはんにゃごんぎょう す。御宿院所毎日御供七日の間なり。
       九日に楽あり。 陵王 納蘇利
両社御前御供(りょうしゃごぜんごくう)  重陽の供と申すなり
外宮還幸(げぐうかんこう)  儀式端午重陽おなし。玉殿遷座の後舞楽あり。東遊、陵王、納蘇利、
       長慶子
   十二日
新嘗供(にいなめく)    両社御前に、新嘗奉る。秋来の御供とも云なり。
          大宮御前御簾みすか ゝげ奉り儀式厳重なり。
          かがりび   和琴わごん     太笛ふとふえ     東遊あずまあそび
          乱声らんじょ   振鉾えんぶ  抜頭ばとう   還城楽げんじょうらく
   十四日
大宮御祭(おおみやおまつり) 三月御祭同前也。の剋供僧、客人宮拝殿に着座。社家衆僧迎とて、
         廻廊にて楽あり。供僧大宮の秡殿に至る。六家、大床に昇殿す。楽方・舞方左右の楽屋
         に着座。
         新曽利子しんそりこ   一曲いっきょく    万歳楽まんざいらく    地久ちきう    敷手
        陵王りょうおう  貴徳楽きとくらく   納蘇利なそり   長慶子ちょうけいし
         供華くげ とて菊花品々奉る。三月桃花のごとし。
   十五日   (以下省略)

(9) 内侍 ないし
厳島神社に仕える巫女(みこ)のことを「内侍(ないし)」と呼んでいた。 
後白河院 梁塵秘抄口傳集 [注記] 8より
  祠官職員の内侍の項   (引用:宮島町史 芸藩通志十五・・・P343)
  厳島神社では 巫女のことを「内侍(ないし)」と呼んで三十一人いた。 
  御殿階下まで進ミ、傳供(ごくう)をなし、故ある神楽にのミ會するもの、十員あり。
  十員の内、八乙女と称し、左右、四座に分る
   竹林・徳壽・御子・四臈・五臈・六臈・七臈・八臈・新内侍二人。
  大床より、上の傳供を、なして、平常神楽をも勤めるもの八員。
  和琴・韓神・田・才鶴・千松・於梅・金千代・於宮内侍。
  大床まての傳供、平常神楽をも勤めるもの十三員。
   河野・宮松・紀伊・於春・飯田・宮槌・高井・溝部・石田・宮熊・地・植木・あねい内侍。
 * 厳島内侍と呼ばれた巫女は、八乙女といい8人の本内侍(ほんないし)と、ほかに手長内侍
    (てながないし)がいた。 
    内侍は巫女として神事に携わる一方、夜に入ると、参詣の貴族の宿所に出向いいて、娼(遊女)
   を兼ねるなどしていた。
(10) 面々 めんめん
めいめい、おのおの
(11) 試楽 しがく
実は、時刻の記述がないことと、大法会あるべきとてと、この試楽の意味が文面の前後を
検討しても不明確である点が難解である。
試楽とは、祭礼などに行われる舞楽の予行演習の事であり、特に平安時代、石清水八幡や賀茂神
社の臨時祭の前に清涼殿の前庭で東遊(あずまあそび)・神楽を天覧に供したことに由来する。
【資料1】宮島町史Ⅰ 厳島道芝記巻六 P197の 長月の厳島神社の神事・祭礼で九月十二日に
営まれるのは、新嘗供-秋来の御供である。この祭礼しかないのに、なぜ試楽、予行練習を二条
は触れているのか。なぜ本番ではないのか。このことが最大の疑問なのである

雅楽について
雅楽の中に、日本で古来から歌われてきた国風歌舞(くにぶりのうたまい)がある。 国風歌舞には、
「神楽(かぐら)」「倭(やまと)舞」 「東遊(あずまあそび)」 「久米(くめ)舞」 「五節(ごせ ちの)舞
などの種類がある。歌に舞を伴い、和琴(わごん)・笏拍子(しゃくびょうし)などの楽器を伴奏に用いる。
「神楽」は天照大神 (あまてらすおおみかみ)が天石屋戸(あまのいわやど)に 姿を隠したとき、天
宇受売命(あめのうずめのみこと)が石 屋戸の前で舞を舞ったのが起源だとされる
他の雅楽では、中国大陸から渡来したものを唐楽(とうがく)といい、朝鮮半島がら伝わったものを高
麗楽(こまがく)という。唐楽には笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・龍笛(りゅうてき)・羯鼓(かっこ)・太鼓・鉦鼓
(しょうこ)など、高麗楽には高麗笛(こまぶえ)・篳篥・太鼓・鉦鼓・三ノ鼓(さんのつづみ)などの楽器が
ある。唐楽・高麗楽を伴奏とする舞を舞楽(ぶがく)という。
唐楽(とうがく)の舞は左舞( さまい)と呼ばれ、赤色を基調とする装束を着けて舞う。
高麗楽(こまがく)の舞は右舞(うまい)といい、青色を基調とする装束で舞う。

東遊あずまあそび
531年 この頃日本古来の歌謡の一つ「東遊あずまあそび」ができる。
寛平元年(889)京の賀茂神社の臨時祭に初めて「東遊」が奏された。
安閑天皇の御代、駿河国の有度浜に天女が降り、 舞い遊んだという羽衣伝説の故事から起こった
東国の風俗舞といわれる。「東遊」は、和銅六年(713)に朝廷が各地の土地・産物・伝説などを編
纂した「風土記」の中にも記されている。

ここで東遊(あずまあそび)をキーワードに厳島神社の神事・祭禮を調べてみると、仁安三年(1168)に
は、厳島神社は、厳島の社殿を「本宮」、対岸の地御前じごぜんにある社殿を「外宮」と呼んでいた。
本宮で九月十二日東遊(あずまあそび)が舞われたのは、天文二十一年1552秋来の御供に在庁   
官人(ざいちょうかんにん・・・平安中期以降、国衙(こくが)にあって実務に携わった下級役人。)など
の人々が奉仕し、神社の社家政所(しゃけまんどころ・・・社家(しゃけ)とは、代々特定神社の神職
を世襲してきた家(氏族)のことである。政所(まんどころ)とは、大寺社において、所管の事務や所
領経営など雑務を執行した機関。)から饗膳(きょうぜん・・・馳走の酒肴(しゆこう)。)などのもてなし
を受け、鳥蝶・倍従舞人(べいじゅうまいびと・・・祭りのときなどに、舞人とともに参向し管弦や歌の
演奏を行う地下(じげ)の楽人)が東遊を舞った可能性があるらしい。「注]

東遊(あずまあそび)は対岸の外宮の御旅所神事げぐうのおたびしょしんじ の五月と九月に長く続けられて
きた。
御旅所神事とは、祭神が神輿などに乗って、御旅所まで神幸と還幸し、饗応を受けることで霊威を
増す神事・祭礼のことである。外宮には、御旅所宝殿・同拝殿は仁安三年(1168)には建立されて
いた。しかし、御旅所神事での東遊(あずまあそび)についての外宮の記録の初見は、永禄六年(1563)
棚守房顕たなもりふさあき の「厳島外宮年中神事祭田之事」にある五月一回、九月三回である。「注2」
朔幣さくへい ・・・[中古・中世、毎月朔日(さくじつ・・・ついたち)に国司が国内の主要な神社に幣帛
(へいはく・・・神前に供える物の総称)を捧げたこと。]の神事・祭禮では、戦国の世以前の外宮で
元日・十月・十二月の一日に執り行われ、国司が任国 (にんごく・・・国司として任命された国) の
神々の意向に従うことを表明する東遊が舞われていた。
さて乾元元年(1302)は何があった年か・・・二条が京の鳥羽を出立し、宮島に来島した年である。
二条は、九月十二日試楽を見たことになっている。しかし、本宮では、天文二十一年1552)以前
には、試楽=東遊(あずまあそび)がないことは{(11の注)}で触れた。
250年後に初見の記録がある東遊(あずまあそび)を二条が見たというのは在り得ない事なのである。

「注2」 厳島神社の文書の保管について
参考文献:「厳島文書伝来の研究」 松井輝昭著 吉川弘文館
厳島神社では鎌倉終期までの文書は大半が宝蔵で管理・保存されていた。
南北朝・室町後期になると宝蔵に保管されなくなってきた。厳島神主家の居城である桜尾城に保管
されるようになったからである。ところが、天文十年(1541)四月六日、承久三年(1221)藤原親実が鎌
倉より神主職に任ぜられて以来三百二十年にわたり神主職を世襲し、厳島神社神社神領、佐西郡
を支配してきた藤原氏神主家はついに友田興藤が城に火を放ち切腹したがため宝物、文書と共に
焼失、神主家が滅亡した。
御旅所神事の行われていた外宮には、御旅所宝殿・同拝殿は仁安三年(1168)には建立されてい
たので、永禄六年(1563)棚守房顕たなもりふさあき の「厳島外宮年中神事祭田之事」にみえる
宮の記録の初見より遡る文書が桜尾城と共に焼失したと考えられるので御旅所宝殿・同拝殿建立
時より御旅所神事は行われていたと推測できる。

試楽が東遊(あずまあそび)・神楽を天覧に供したことに由来すると先に触れたが、二条はなぜ、「試楽
=予行演習=東遊」と云ったのであろうか。もう一度原文を眺めて見ることにする。

九月十二日、試楽(11)とて、廻廊(12)めく海の上に舞台を建てて、御前(13)の廊より上る。
内侍八人、皆色々の小袖に白き湯巻(14)を着たり。うちまかせての楽どもなり。唐の玄宗の
楊貴妃が奏しける霓裳羽衣(15)(げいしょううい)の舞の姿とかや、聞くもなつかし。』

それにしても、他人に知れず、自分だけ知るのが日記であろうが、それならなぜ、わかってほしい、
語らずにはおられんなぞと云って、後世に書を残すのか。残すなら、確証できる時間と日付けをも
らすなと言いたいのである。
さて、九月十二日、試楽(11)とて の「とて」は理由を表す故、「試楽というので」の意か。
試楽=予行演習=東遊というのであるから、この日十二日以降のいつの日にか必ず「本楽」とも
いえる神事・祭禮に際し、本番の舞楽が行われなければならないことになろう。
しかし、(11の注)にある本宮で九月十二日 東遊(あずまあそび) が舞われたのは、天文二十一年
(1552)秋来の御供に在庁官人が舞った以降のことである。二条が宮島に来島した年 乾元元年
(1302)には、試楽=東遊はなかったということである。

厳島神社の神事・祭礼で九月十二日に営まれるのは、新嘗供にいなめく-秋来の御供である。
従って、二条の云う「試楽」という語は舞楽の予行演習を行う事の意ではなく、「しゅうらい」 「習礼」        
「習礼」が「試楽」と同義語であることから「試楽」が「秋来の御供」の神事・祭礼に当るといえないか。
厳島神社はその長い歴史の中で、神を慰めるため、神事・祭礼を行ってきた。その行ってきた神
事・祭礼を存亡の危機がない限り、伝統を代々保守・継承することに心血を注いできており、決し
て廃れることはないと考えられる。
新嘗にいなめ とは秋に、その年に新しく取れた穀物を神に供えて--(御戸開みとびらきの集来米として
新米三斗二升が供えられた)--神を祀っていた。集来米を供える事を新嘗奉る(にいなめたてまつ
る)といい、この神事・祭礼を新嘗供にいなめく とも秋来の御供しゅうらいのごく とも呼んでいた。
大宮御前御簾みすか ゝげ奉り儀式厳重なりとあるような神事・祭禮の時に予行演習はないだろう。

天文二十一年(1552)以降、本宮で執り行われた新嘗供にいなめく-秋来の御供についてみると、
大宮と客神社の神前でかがりびを焚き小忌衣{(おみごろも・・・新嘗祭にいなめさい などに、小忌
(おみ・・・新嘗祭の時に、厳しい斎戒さいかいを受け、小忌衣おみごろも を着て神事に奉仕すること。)
の官人・舞人などが装束の上に着る狩衣に似た衣。白布に春草・小鳥などの模様を藍摺りにし、肩
に赤紐(あかひも)を垂らす。} を身に着け東遊あづまあそび を舞い、そのあと舞楽の振鉾えんぶ 抜頭
ばとう 還城楽げんじょうらく も演じられたという。    装束の}種類 小忌衣(おみごろも参考Web
演じられた舞楽について
乱声らんじょう
舞楽の前奏曲の一種。乱詞(らんじ)ともいう。独立した楽曲ではなく、舞人が登場する前の導入曲、
あるいは登場の音楽として用いられる。
振鉾えんぶ
舞楽の始めに必ず行われるもので、古代中国(周)の「武王」が天下を平定した際の故事に基づく、
儀式的な舞楽。
抜頭ばとう
天平年間(729~748)に婆羅門僧正と、林邑の僧、仏哲により伝えられたといわれている。 猛獣
に父をかみ殺された胡人の子が山野を探し求めて遂に父の仇を打ち、歓喜する姿を舞いにしたという。
また、漢の后が嫉妬に狂う様を模したともいわれている。 この舞は、四天王寺の楽人に伝えられてき
た舞であるが、絶えてしまったので、厳島神社の楽人の棚守元貞が大阪の楽人 岡昌稠に寛政八年
(1796)に伝え返したといわれる。 
還城楽げんじょうらく
「見蛇楽」「還京楽」ともいい、蛇を好んで食べる西域の人が、蛇を見つけ捕らえて悦ぶ様子を舞いに
したといわれる。また、還城は凱陣を意味し、唐の玄宗が韋后の乱を平定し帰還した時に、「夜半楽」
と共に作らせた曲といわれて、めでたい曲とされてきた。

ところが、二条から400年後の「厳島道芝記巻六」小島常也(広島の町役人) 1702年刊行)に試楽の
記述があることがわかった。。
三月十四日  楽屋雑餉(がくやざっしょう・・・もてなしの酒や食事)
          十五日御祭楽人試楽あり酉の剋雑餉御酒肴干貝等を用ゆ

さらに、140年後刊行の「芸州厳島図会上巻」の五 祭禮并年中行事禱祠故事(さいれいならびに
ねんじゅうぎょうじとうしのこじ) 三月の項にも次のように記されている。(岡田清(広島藩士) 
1842年刊行)
三月
十四日試楽しがく  此日翌十五日祭の楽を試(こころ)む。陵王(りょうおう)納蘇利(なそり)等なり

「厳島道芝記巻六」、「芸州厳島図会上巻の五」も十五日の祭りとは「大宮御祭」酉の剋社家・・・」と
「十五日夜大宮祭(十五日よおおみやまつり) 此夜諸祠官大宮に出仕、座主・供僧客人宮に着座、
大宮にて振鉾を舞ひ後衆僧を迎ふ。鳥向楽ちょうこうらく 蘇利古の楽あり。衆僧客人宮より大宮祓殿
に至り、曼荼羅供まんだらく を行ひ桃の花を御階みはしの下に奉る。また十天楽じってんらく・万歳楽・
延喜楽えんきらく・散手さんしゅ・貴徳楽・陵王・納蘇利の舞楽あり。」・・・・である。
九月十四日の大宮祭おおみやまつりに式三月十五日の如し。この日は菊花きくを奉る。また供僧ぐそう
一切経会いっさいきょうえを行ふ。とあり、神仏習合で僧による一切経会(一切経を供養するために行う
法会)が盛大に執り行われるのである。
衆僧・・・・「衆」(しゅ)修行者の集まりや、教団のことをいう。

九月と三月では祭禮の日にちこそ違うが、試楽は翌日の十五日祭(大宮祭)の陵王等の楽を試む
と明確に記されている。試楽のあることはこれにより明らかになった。、二条のいう試楽という語は
試楽の由来の試楽=東遊と限定せずに、舞楽の予行演習を行う事の意ということなのであろうか。
しかし、九月十二日の新嘗供は大宮御前御簾みすか ゝげ奉儀式厳重なりとあるように御簾(みす
・・・神前・宮殿などにかける簾(すだれ)。)をかかげる・・・垂れ下がっている簾の下端を巻き上げる
ような神事は、正月元旦の御簾捲 みすあげ と三月十五日の大法会を前にした三月十二日の御簾
と捲・・・・此日、祝師ものもうし両宮の御簾を捲く。と正月元旦、三月十二日、九月十二日の三回しか
ない重要な神事であった。
宮島町史Ⅰ記載厳島道芝記巻六 P197 の神事については、起源、挙行時代の詳細は触れられ
ておらず不詳である。
しかし厳島道芝記は1702年刊行につき、その数十年前までは遡る事は出来るかもしれないが、二条の
1300年までは無理であろう。実は厳島神社に宮島町史掲載のこの神事日程と二条のいう神事が、同じ
日程かを尋ねたところ、1300年代は記録がなく、棚守房顕の1500年代以降は記録がある。ということ
であった。神事は一日中連続しては行われないともいわれた。
また神仏習合(日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から
寺院に神がまつられたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは、すで本格的な本地
垂迹(すいじやく)説が流行し、両部神道などが成立した。神仏混淆(こんこう)ともいう)から、神事は夕方から
夜にかけて執り行われることが多かったらしい。明治期になって、神仏分離がなされ、祭礼は大きく変
わり、現在、厳島神社では、無論大法会はない。・・ということであった。
九月十二日 新嘗供は かがりび を焚いて神事を行う事から夕方から始まるのであろう。ということは
二条尼が予行演習=試楽を見たというなら、日中、内侍八人の練習風景を見て、時が経ち、夕刻から
乱声らんじょ  振鉾えんぶ  抜頭ばとう 等を楽しんだのであろう。

江戸中期以前の本宮の神事に関し、さらに調べてみてつぎのように判明した。
芸備地方史研究258・259 「中世前期の厳島神社における国衙祭祀と神事・祭礼の「場」松井輝昭
より引用すれば、「浅野忠兀旧蔵厳島文書2号」、「新出厳島文書111号」に厳島神社の「内宮」では
神事・祭禮として承安四年(1174)に「一切経会いっさいきょうえ」、寛喜四年(1232)に「御戸開節会
みとびらきせちえ」が始まり、これらの「場」に供僧が参加し法会の要素が強くなったがために大法
会と呼ばれ、以後毎年「一切経会」は九月十四日に、御戸開節会は三月十五日に執り行われ
るようになった。とある。江戸時代以前においては厳島神社最大の三月・九月の二大法会として盛大
であった。
「一切経会」は九月十四日である。 が異説に触れておく。
「とはずがたり」 福田秀一校注 新潮日本古典集成の巻末年表P408 巻五 乾元元年 厳島の大
法会を見るは同・13とある。
さらに「とはずがたり」に見る広島地方の生活」金子金治郎 (「芸備地方史研究21号」) P15上段
後半部 「鞆から厳島へ渡った。九月十二日に試楽があり、翌十三日に大法会が行われ、左右の舞
楽があった。とある。
なんらかの資料に基づき13日という日が表現されたのであろう。その典拠探しの顛末記を記録してみた。
東京大学史料編纂所のデータベースの使い方などサーチ手順などが素人には参考になると思われる。
典拠探しの顛末記からわかるように、13日の典拠は以下のようであった。
正応五年(1292)九月十三日 臨時祭  文書番号18002 新出厳島文書 と判明
したのである(2008/5/31)。
さらに、「臥雲日件録がうんじっけんろくにも 「・・・・厳島九月十三日有会、諸国年々来詣、・・・」
と文安四年(1447)四月十七日の条に、永享十二年(1440)に参詣した座頭((ざとう・・・・中世・近世、
僧形の盲人で、琵琶(びわ)・琴などを弾いたり、また按摩(あんま)・鍼(はり)などを職業とした者の総称。)
城呂が知り得たことを著者瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)が書き留めた日記にみえる。

九月十三日の法会については、
二条尼の乾元元年(1302)に見たという大法会は以前が十年前の正応五年(1292)九月十三日の臨時祭
以降が138年後の永享十二年(1440)九月十三日の法会ということであろう。
この他には十三日の記述は見られない。

2008年現在、桃花祭は毎年4月15日、菊花祭は10月15日。両日とも午後5時から行われる。
それぞれ桃の花・菊の花を御祭神に供える祭典が厳かに執り行われ、舞楽が始まる。どちら
も「舞人」と「楽人」の神職たちによって「振鉾」「万歳楽」「延喜楽」「陵王」「納曽利」など11の舞楽
を厳島神社の高舞台で奉納される。

結論・・・・日付のない紀行文の日にちを推測すると
九月十日、かの宮島に着いた。・・・到着時刻、其の日の宿泊先は 不詳
九月十一日・・・島内散策が普通である。漫々たる波の上に、鳥居遥かにそばだち、百八十間の廻廊、
          さながら浦の上に立ちたれば、おびただしく船どももこの廊に着けたり。・・・・
        誰かに教わったであろう百八十間の廻廊の長さ、鳥居が海の上に建っており、神社の
          廻廊に船を係留、今まさに廻廊を目指し船が入って来るそんな様を眺めながら何事
          かと人に聞けば、三日後の十四日に大法会が執り行われる事を知ったのであろう。
          だからこの大法会を見るまでは「幾程の逗留もなくて、上り侍りし。」だった。
九月十二日・・・試楽は秋来の意で新嘗供 秋来の御供の神事祭礼に当る日である。
        儀式厳重なりとあるが夜の神事・祭礼なので、日中の練習風景を二条は見たのであろ
        う。
九月十三日・・・記述なしとしたが、今回新たに調べた結果から次のように訂正する。
「鎌倉遺文」は故・竹内理三さんが編纂した鎌倉時代研究の基本史料で、正編42巻、補遺編4巻からなる。
この中に「新出厳島文書」の史料が指摘されているのである。
一六四 臨時祭日記写
    正応五年(1292)九月十三日当社(安芸厳島社)において臨時祭事遂行せられ・・
とあるので承安四年(1174)に「一切経会いっさいきょうえ」がはじまり、以後毎年「一切経会」は執り行われる
ようになった(注 広島県史 中世 P814) が二条尼の訪れた乾元元年(1302)には、なぜか臨時祭として九月
十三日に行われたということのようである。
先に触れた座頭城呂の永享十二年(1440)九月十三日の法会は臨時祭かどうかは不詳である。
また広島県史 中世 P814に承安四年(1174)に「一切経会いっさいきょうえ」がはじまり、以後毎年「一切経会」
は執り行われるようになったとあるが、祭祀施行の日の典拠はまだ未確認である。

厳島社古文書で棚守房顕の永禄六年(1563)八月十三日の「厳島内宮年中社役神事」には、三月十五日と
九月十四日に大法会の神事日程記述がある(巻子本厳島文書五五号)。

宮島を離島・・・大法会の翌日か遅くても翌々の十五日には、船で出立したと思われる。なぜなら、
        「これには(21)幾程の逗留もなくて、上り(22)侍りし。」と、ここにはそれほど滞在する
          理由もないので京の都へと帰途に着いたのであろう。
(12) 廻廊
社殿と社殿などを結ぶ廊下で、廻廊は東・西廻廊があり、屋根桧皮葺(ひわだぶき)、180間なり。
(13) 御前 おんまえ・みまえ
神の前 社殿
(14) 湯巻 ゆまき、いまきとも
貴人が入浴の際身に巻いたもの。またそれに奉仕する者が衣服の上に羽織ったもの
転じて女房の略装。
(15) うちまかせての楽    霓裳羽衣 げいしょううい
普通の音楽。 霓裳羽衣 げいしょううい という舞曲の一つ。
「霓裳」は虹にじのように美しいもすそ(スカート)の意。「霓」は虹。「羽衣」は鳥の羽で作った軽い衣。
(16) 左右
楽器のみによる演奏を「管絃」、舞を伴うものを「舞楽」と呼ぶ。
「舞楽」には唐楽(とうがく)と高麗楽(こまがく)の2種類があり、唐楽による「舞楽」を左方(さほう)、
高麗楽による「舞楽」を右方(うほう)と呼び、夫々の舞を左舞(さまい)・右舞(うまい)とも呼ぶ。
(17) 天冠 てんかん
円頂で中央に飾り物を立てた冠。
(18) 秋風楽 しゅうふうらく 
雅楽の一。左方の新楽。盤渉(ばんしき)調の中曲。常装束で舞う平舞の四人舞。
(19) 通夜 つや
夜通し
(20) 宝前
社殿の前庭
(21) これには
此処厳島には
(22) 幾程の逗留もなくて、上り侍りし
それほどまでも滞在せず、京の都へと帰途に着いたのです。

参考文献: 「とはずがたり」 福田秀一校注 新潮社、  「芸州厳島絵図 上巻」 福田直記編 宮島町、 
    「宮島町史」 宮島町、「広島県史 原始・古代」「中世」 広島県、「芸備地方史研究258・259」 同研究会  
     「戦国大名毛利氏と厳島神社」 松井輝昭著 (「毛利元就と地域社会」) 中国新聞社
     「厳島文書伝来の研究」 松井輝昭著 吉川弘文館
参考Web: 「とはずがたり」 『フリー百貨事典 ウイキペディア(Wikipedia) 日本語版』
        取得 2008年4月29日(火)  最終更新  最終更新 2008年4月26日 (土) 12:12。
     東京大学史料編纂所のデータベース
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller   2008年5月31日

戻る   Top