トップ 特集1 江戸の文化いろいろ吉原と川柳5


江戸一の大歓楽街  -吉原と川柳-
その伍
 九郎助稲荷は、和銅四年(711)の鎮座で、往昔、千葉九郎助と云う者の地内に在って、田畔(たくろ)
稲荷と称せられたものであったが、慶長の末(1600初め)、遊廓の設置と共に、元吉原へ遷(うつ)された
のが、明暦年間 (三年(1657) 遊廓の移転と同時に、再び新吉原へ遷され、「縁結びの神」と呼ばれて、
廓内の人々の信仰厚きものであった。
九郎助稲荷の祠(ほこら)は、京町二丁目の奥に在って、享保十九年(1734)に正一位大明神の官位宣下
があり、この廓の鎮守神として崇(あが)められ、元吉原から遷された由緒(いわれ)のある稲荷で同年八月
朔日大祭を執行された。其の時余興として催された踊りが、今日迄残る仁和賀狂言(にわかきょうげん)の
濫觴(はじまり)である。
     九郎助へどうぞと思ふ願ばかり
     九郎助へ化けて出たいの願ばかり
     九郎助へ代句だらけの絵馬をあげ
それ々皆遊女の心願を詠んだもので、化けて出たいとは、一日も早くこの苦界を脱け出て、恋しい男の
もとや親のもとへ行きたいと願う、勤めの身のはかない心情を云い、末句の「だらけ」とは、多少俳諧の
心得ある遊客が、遊女の奉納する絵馬に、代作したと云うのである。
  ◇朔日(さくじつ)・・・陰暦で毎月の第一日、ついたちのこと。
  ◇仁和賀狂言(にわかきょうげん)・・・毎年八月、男女芸者が種々の化粧をして、男芸者(封間)は、
       芝居狂言に洒落を加え、女芸者は、踊り所作を披露、これを車の付いた小舞台を少数作り、
       各々囃し方(はやしかた)を引き連れて仲之町の御茶屋を一戸毎に一狂言して廻った。


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