厳島合戦考
2007/9/9


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陶晴賢が勝てなかったターニングポイントは何か

 歴史に 「I F」 はない、とよく言われる。
歴史に興味を抱きおよそ一年、厳島合戦については、いつの日か取組みたい
テーマでではあった。しかし、壮大なドラマなのでなかなか入り込む余地がな
かった。ここ二・三ヶ月は桜尾城の城郭の様子に興味があり、調べていた。
図説 廿日市の歴史に「芸州厳島御一戦之図」があることは承知していたが、
なぜか気になり、スキャンし、画像ソフトで、よく見えないとか、本州側が山側
からのアングルなので反対にしてみるとか拡大・上下反転を試行錯誤をしな
がら繰り返していると、弘治元年(1555)厳島の合戦当時の桜尾城・藤掛尾城
・宮尾城・海岸線の様子がビジュアルに捉えられたことに驚き・興奮した。
古絵図から偶然予期せぬ自分なりの新しい発見をしたことで、歴史への入口
にやっと近づけた思いがした。取組むアプローチの一つの手段を知りえた事
が厳島合戦について入り込むきっかけを作ってくれた。
 廿日市町史等を読み進めるうち、桜尾城を中心とした神主家の動向・陶晴賢
の行動・施策に疑問を持ち始め、先入観を避けるため、厳島合戦の解説本に
は手をつけず、自分自身で考える事にした。
こうして若きエリート武将の晴賢が老練な元就にことごとく組み敷かれたその
要因がどこにあったのか、そのターニングポイント(分岐点)を独断と偏見でま
とめてみた。



厳島合戦についての概略
毛利元就と陶晴賢の戦略の差   大野 門山城 −この城を制した者が勝者ー
厳島を中心とする制海権の完璧なる掌握のために  −地御前に一大水軍基地の構築ー

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