厳島合戦考


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陶晴賢が勝てなかったターニングポイントは何か

ー序ー


厳島合戦についての概略


語句読み方一覧表


ー図説 廿日市の歴史より 抜粋拡大加工処理図ー


承久三年(1221)、藤原親実が鎌倉より神主家に任ぜられて以来三百二十年に渡り世襲してきた厳島神社
神領を中心として佐西郡を支配してきた藤原神主家は、大内義隆が神主を置かず、将来の武田氏攻略の
布石でもある神領を直接支配した事に対し、友田興藤が挙兵したため、義隆は桜尾城を包囲した。
天文十年(1541年)4月5日友田興藤が自決するとき桜尾城に火をつけ、城は焼失、藤原氏神主家は滅亡。
桜尾城は大内氏の支配に入った。同年十一月二十日杉刑部少輔隆真(影教)が神主に任命され、十二月二
十三日、三十〜四十人で厳島に行ったが、社家などの勢力が強くて、追い返されたほどの権力のない名ば
かりの神主であった。
神主影教はやむを得ず能島(愛媛県)に在城していた。 
大内氏は、桜尾城に鷲頭治部少輔ほかを置き、さらに銀山城、八木城、己斐城、草津城にも置き、佐西郡の
支配に当った。
陶隆房が陶家の当主となったのが天文九年(1540)、二十歳のときであり、尼子軍に居城の安芸郡山城を攻
められた毛利元就から援軍の要請があったとき、自重論が支配的な軍儀の席で、「大内に服属した毛利を
救わねば名文がたちませぬ」と主張した隆房は自軍だけで初陣として出陣し尼子軍を追い返した。

大内家の重臣の地位を占めるようになった隆房ではあったが、大内義隆が新参の相良武任を重用しはじめ
たことで、状況が一変する。大内家家臣内に文治派と武断派の対立が生まれ、武力闘争にまで発展しかけ
たが、隆房を恐れた相良武任は逐電 (逃げて姿をかくすこと) した。 しかし固い絆に結ばれていた主従の義
隆と隆房の溝はますます深くなっていくばかりであった。
天文十九年(1550)陶隆房は、主君大内義隆を廃し、義尊擁立を企み、毛利元就に援助を請うたが、慎重な
元就は隆房の命に従いながらも、せっせと自領を増やしながら、その間、逆スパイや贋の手紙まで使って 
「陶家の有力武将江良房栄が裏切っている」とでっちあげ、なんなく隆房に知略家の臣下を殺させるのに成
功している。
先ほどとは逆で、隆房から元就への要請であったが、このころには元就は晴賢と対峙する腹を決断してい
たのかもしれない。だから元就にいずれ脅威と映る晴賢の知略家江良を排除しにかかったのであろうか。
将を射んとすれば馬を射よを類推させる例えである。

隆房は大内義隆に謀反の挙兵に先立って天文二十年(1551)八月二十日に家臣大林を派遣し厳島を占領
し、ついで元就に命じ桜尾城に使者を派遣させ、大内氏家臣鷲頭治部少輔らを説得し桜尾城を明渡させた。
桜尾城を接収した陶隆房は、江良賢宣を桜尾城番とし神領を支配させ、本丸に毛利与三、二の丸に新里、
己斐らを配し防備を固めた。
鷲頭氏城明渡し十二日後の天文二十年(1551)九月一日、ついに陶隆房は、大寧寺(長門市)で主君大内義
隆を討った。

天文二十二年(1553)十月大内義隆の姉婿にあたる津和野城の吉見正頼が陶氏打倒に立ち上がた。
天文二十三年(1554)三月晴賢は直ちに吉見正頼の討伐に赴くが、主力軍が津和野に集結し、さらに大
内氏支配地域の佐西郡・・東西条にかけての土豪の多くが大内・陶の命に従って津和野に出陣していたた、
めにこれらの地域は、無防備状態であった。
しかし、元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えたとはいえ十ヶ月も無防備状態のま
まにした晴賢は元就を本当に信用できると思ったのか。 以前津和野の森鴎外生家から見上げた 津和野
城石垣は急傾斜の山に建ち、これでは晴賢といえども攻めあぐねるだろうなという実感した記憶を思い出し
た。とにかく現地をみると攻めあぐねるだろうことはよくわかる。しかしこんな期に十ヶ月も戦を続けるとは、
ちと長すぎはしないか。落ちなければ もっと早く講和を結ぶなりして、元就の勢力拡大に恐れをなしつつ
あった晴賢なればこそ、佐西郡進出封じ込め策を早急に実行すべきではなかったかと悔やまれるのであ
る。晴賢のこのときの状況は、前に吉見勢、後ろに元就勢に挟まれ、身動きが取れない状況であったが・・。  
こうしてる隙を突かれてのちに、元就によって安芸における大内方の城の大半が陥落してしまうのである。
虎視眈々と機を伺っていた毛利元就は、陶勢の津和野城攻撃中、天文二十三年(1554)五月十二日自立
を決意するに至り、、大内義長、隆房改め陶晴賢と断絶した。

陶晴賢と断絶した毛利元就は、すぐさま手を打つ。さすが元就は考え抜いた行動をするし、即実行する。
五月十二日挙兵したその日に吉田郡山城への攻略線上に当る陶方の城攻略のため、二千余騎を従え、
佐東郡に兵を進め、大内方の金山城城番栗田肥後入道らを説得し、城を明渡させ、次に己斐城草津城、
、石内、五日市と大内方の兵を打ち破り、廿日市へ進み、洞雲寺に入り、桜尾城に立て篭もる江良氏ほ
かに城を明渡させ、また厳島を守備していた陶方の深町を島から追い出し、島を占拠したのである。
毛利は挙兵当日、金山・己斐・草津・桜尾四城と厳島を占領するという快挙をあげた
こうして広島から廿日市に至る沿岸部を抑えた元就は、桜尾城に桂元澄、草津城に児玉就方、仁保島
城に香川光景を配し、来るべき陶晴賢との決戦に備え、防備を固めた。

この元就挙兵の報は直ちに津和野出陣中の晴賢のもとにもたらされた。
陶方も元就挙兵は想定の範囲内と思われ、やがて反撃に出るのである。
津和野にいる陶勢は、周防山代から岩国、大野と陸路で廿日市を経由して安芸に侵入するか、岩国か
ら海路侵入するか、周防山代、佐西郡山里の陶方の土豪を引き連れ、佐西郡北部(吉和・佐伯)から侵
入するか等々の選択肢が考えられるが、陶の急ぐ心理からして佐西郡北部が最短で安芸に侵入でき
きるのは明らかで、金山・己斐・草津・桜尾四城と厳島を占領して事に望んだ元就の戦略通り、折敷畑
激突する事になる。
天文二十三年(1554)六月五日陶方の周防山代・佐西郡山里の土豪を動員し、廿日市西方の毛利方の
陣である桜尾城を眼下に望む折敷畑に宮川甲斐守らは布陣したが、明石口で毛利軍と一戦を交えるも
毛利軍の奇襲により奮闘むなしくも敗れ去ってしまった。
両陣営の状況   宮川勢七千人、 死者七五〇余人、 毛利勢三千人、 死者七十余人。

その後も毛利方は、佐西郡山間部の陶方の一揆的抵抗をする土豪掃討作戦を続けたが完全に平定で
きなかったので、山里要害を築き、山間部からの陶軍の進攻に備え番衆を置き警固していた。海と陸と
山とからの万全な進攻防衛網を敷いたのである。
このように元就は佐西郡の沿岸部と山間部を支配下に置き、陶晴賢との決戦に備え、狭い厳島での決
着をせざるを得ないような状況を作っていったのである。

宮尾城の城番に人事のマネージメントの伏線がある。
想像図
(要害鼻は三方を海に囲まれ、現在の山辺の小径の下まで遠浅の海であったという
元就は弘治元年(1555)春から厳島の三方が海に囲まれた要害鼻(高さ三五b)に宮尾城を築きはじめ、
城番として、己斐豊後守と新里宮内少輔を六百の兵の守備隊長として緊要な場所と見せかけた。同時
に桜尾、仁保島、能美島等の要塞と合わせ内海警備の任を負わせた。この二人は大内義隆の己斐城、
桜尾城の城番で、義隆亡き後は陶方で、天文二十三年五月十二日の毛利元就の陶晴賢への挙兵で
夫々城を明渡したとき、毛利方に降人 ( こうじん・・・降参したひと) した人物たちである。
この両人は、見せ掛けの、囮城である宮尾城の城番に抜擢されたというよりは、決死隊として死守を命じ
じられたという方が正しいかもしれない。晴賢にはない元就の人事マネージメントの素晴らしさは、うまく
人心を掌握することにある。元就は豊後守に城番を受諾し忠勤をはげむことを感謝し、領地を安堵する
ことを約束している。二人にとって今回の厳島の戦は、元上司である晴賢に対してのすまなさ、拾ってく
れた元就に対しての恩を返す気持ち、かっての同僚と戦わざるを得ないという複雑な心理を合わせ持っ
ていることを見抜いて成功することを確信しての元就のアメとムチのマネージメントであろう。
元就の期待通り、両人は合戦当日までなんとか宮尾城を死守するのである。
晴賢は、城番が引くに引けない決死の覚悟であるという心理を読んでいたのか疑わしい。
こういう追い詰められた心理の人間は、火事場のばか力ではないが、持っている能力以上のことをする。

城番(じょうばん)について
城番には定番(じょうばん)と在番(ざいばん)がある。
定番は、長期間にわたり城番を勤め、恩賞が約束されている。
在番は、軍事奉仕として一定期間城番を勤め、交替するもので、期間が延長されようが新たな給地が
与えられる事はない。

元就が要害鼻に宮尾城を築城したことを知った陶晴賢は、弘治元年(1555)五月十三日と七月七日攻
撃を仕掛けたが、落ちなかった。
晴賢は間者を使うなり、元就の動向を監視していなかったのであろうか。
さらに厳島の経済的権益を我が物とする意向があった掟を発布しておきながら、厳島を軍事的な万全
な体制をもって支配していなかったのか。棚守房顕覚書のあの房顕とどういう関係を保っていたので
あろうか。主君義隆と同様な友好的な間柄であれば、元就の宮尾城築城着手の様子は房顕から報告
か゜入り、策が講ぜられたはずであるが、時すでに遅し。
岩国の軍議で弘中三河守(隆兼)らは陸路廿日市桜尾城攻略、一挙に吉田郡山城を攻略と進言したが
陶晴賢は、海路厳島攻めを決断する。
陸でこそ多勢の有利さが発揮できる。佐西郡沿岸部を最低奪い返しておき、元就本体の吉田郡山城
からたやすく、佐西郡への進攻がままならぬ状況にしておくべきであった。
八月下旬には吉見氏との講和を結び山口に帰還した陶晴賢は、大軍を率い岩国に布陣した。翌弘治
元年(1555)正月朔日(1日)から三月晦日にかけて、陶方の府中白石の、警固船が草津、矢賀、尾長、
仁保島、海田などを攻撃、一方陶方の警固船も幾度となく厳島に押し掛けるなど、圧倒的な水軍力を
を持ってして広島湾地域の奪還を図るべく攻勢を強めた。これに対し、毛利氏は桜尾、草津、仁保島、
厳島に築いた宮尾城(宮之城)などの拠点に増援の派兵をし、来るべき陶氏との決戦に備え防衛体制
を固める作戦に出た。

九月二十一日陶軍は七百余艘の軍船 (折り返し輸送・弘中部隊は第二次) 岩国今津から厳島に渡り、
本陣を塔の岡に構え、付近一帯を駐屯の地とし直ちに宮尾城への攻撃を開始した。
軍船で北岸を警備しつつ、二十二日以来攻撃中の宮尾城は予想以上に堅固であったためか、あだに
時を空費する状態の弘中三河守(隆兼)らは焦燥し、晴賢に早期総攻撃を主張したにも聞き入れられず、
十日に十月一日と決定されたのである。
岩国の軍議につぎ晴賢ブレーンの弘中三河守(隆兼)ら家臣の進言をこれで二度も排除した
大将の補佐をなすのがブレーンの役目で、そために事前に情報の収集をし、戦術・戦略を進言するのである。
大将に忠誠を尽くす部下に晴賢は、自分が主君大内義隆を討った下剋上の世に精神がゆがめられ、部下を
信頼できない状況に追い込まれていたというのであろうか。
実は、弘中三河守は守護代を務めた大内氏の重臣で、安芸国経営に携わった実務経験から、元就の
経営手腕を最も熟知していた人物で、敢えて言うなら奇異をてらう晴賢に対し慎重論を唱えたが聞き入
れられず敗北を予見したかの手紙をその子に残している。有能な家臣の貴重な意見をなんなく退け
る晴賢の野望に暗雲漂う長命の限界が見え隠れする。
十月一日弘中三河守(隆兼)は敗走する晴賢の無事を祈りつつ、山に登り、駒ヶ林 龍の岩に立て籠もった
のである。弘治元年(一五五五)十月三日、厳島駒ヶ林 龍の岩において弘中三河守(隆兼)は子 源太郎
とともに切腹した。こうして弘中三河守(隆兼)父子の切腹により、毛利元就は戦闘態勢を解いたという。
晴賢の死でないところに、元就の隆兼に対する念が思いやられ、さすが元就と感じ入った。
弘中父子の遺体は岩国市今津町大応寺に埋葬された。厳島合戦ののち、吉川広家が岩国を領し、弘中
最後の岩国城主となった。

厳島合戦の勝敗を決するであったであろう宮尾城攻略のある出来事について考えてみたい。
なぜ晴賢が宮尾城攻略を急がなかったのか、元就の謀略の策にまんまと引っかかったとしか言いよう
がないのである。そのわけは、元就が一部の後方部隊を草津方面に引き上げたのを塔の岡から遠望し、
厳島攻撃の意志なしと読んだからである。厳島は神の島であり、一切の不浄が許されないこの地におい
て戦が起こる筈がないという晴賢ひとりよがりの大きな誤断である。このことが、厳島合戦は数ではなく、
知略の限りをつくした心理戦であったことを如実に物語っていると思う。
この動きに毛利氏は九月二十四日吉田郡山城から佐西郡に出陣。毛利隆元(元就の長男)は、まづ
廿日市桜尾城入り、吉川・平賀氏などの軍勢を呼び待機。元就は草津にて小早川氏の水軍、村上
水軍の来援を待った。このときの厳島の戦況は、毛利氏にとって安堵できるものではなく、陶軍の攻撃
によって宮尾城は一段と切迫した状態であった。桜尾城からもその様子は見えており、その情報は草
津の元就にも報告されているはずで元就は苦悩したに違いない。九月二十七日になっても村上水軍
の姿は見えず緊急事態のため止むを得ず、元就は、小早川水軍と佐東河内水軍とで、厳島への渡海
を決意するも翌二十八日になって、待望の能島・来島村上水軍が二〇〇〜三〇〇隻で大挙して草津
に入津した。

厳島合戦
九月晦日夜、風雲急を告げる暴風雨の中、阿品の火立岩を出航した毛利軍は、厳島包ヶ浦に上陸し、
博奕尾を越え翌十月朔日、塔の岡の陶軍の本陣の背後(光明院の裏の「谷が原 やつがはら」の奥あた
か)で待機当時の地形は博奕尾から攻め下る時通った尾根道であった。
毛利軍の一部は、天明を待ち、ここから御綾川の右岸に晴賢が一夜の休憩をしていた所に突入した。
隆元らは一旦厳島社を通り過ごし大野沖まで東進し、そこで引き返し、大鳥居方面より陶軍警固船の
真っ只中に入り、筑前大友の兵を名乗り、味方と偽り、予定通り有の浦に到達。
来島村上水軍は海岸伝いに地御前、大野、玖波方面にて予定通り展開完了。

合戦当日
天明を待ち、各軍は、突撃太鼓を合図に一斉に喊声 (かんせい・・鬨の声) をあげて突撃を開始した。
毛利本隊は陶方の本陣へ、小早川の別軍は宮尾城の守備隊とともに正面から陶方を攻撃。不意を突
かれた陶軍は総崩れとなり、大元浦の方面へ敗走した。島から船で脱出を図った者も大勢で乗船した
ため転覆したり、沖合いで待機していた村上水軍に撃沈されてしまった。
敗走した陶晴賢は西岸の大江浦で自刃した 。午前六時から始まった戦は、午後二時ごろ大体終わった。
(陶晴賢の自刃の地は、説が他にもあり、陶晴賢の最期の地は、瀬川博士によって大正十年(1921)「高安
原陶晴賢戦死之所」の碑が建てられている)
晴賢の佐西郡支配は天文二十年八月から天文二十三年五月まで(厳島合戦の四ヶ月前)三年にも満た
ない短い期間であった。
驕れる者久しからず・・・・・・おごれるもの ひさしからず
(地位や財力を鼻にかけ傲慢な振る舞いをする者は、長く栄えることなく滅びるということ)

陶晴賢辞世のの句
「なにを惜しみなにを恨まんもとよりもこのありさまの定まれる身に」
(こうなることは最初から定まっていた運命なのだから、惜しんだり、恨んだりすることはない)
こんな精神で百戦錬磨の元就に挑んでいたのか。
晴賢は、かって初陣にして元就救援の吉田郡山城で尼子軍勢を撤退させ、一応成功している。
周防守護代のエリートの家系に生まれた若き武将は結局百戦錬磨の元就の相手ではなかったということか。
陶晴賢、廿日市市 洞雲寺 西方の墓地に眠る。
桜尾城で首実検ののち、この地に葬られている。
合戦後自然石の小さな首塚としてあり、
その後いつの日か立派な
宝筐印塔(ほうきょういんとう
)
になったとの伝承があるという。

因縁話
晴賢の眠るここ洞雲寺は長享元年(1487)520年前、厳島社神主藤原教親(のりちか)、宗親親子が周防・
龍文寺の金岡用兼禅師(きんこうようけんぜんじ)を招き開山した神主家の菩提寺である。
ところが周防の龍文寺は守護大内氏の守護代で大内氏の重臣であった陶氏の菩提寺であり、永享元年
(1429)に陶氏五代盛政によって建立されたものである。代々の陶家菩提寺の元住職が、晴賢の眠る洞雲
寺の開祖になっていたという、なんとも不思議な巡り合せではある。  -2007年記す-
奮戦むなしく散った晴賢に合掌

厳島合戦考
厳島合戦についての概略
毛利元就と陶晴賢の戦略の差   大野 門山城 −この城を制した者が勝者ー
厳島を中心とする制海権の完璧なる掌握のために  −地御前に一大水軍基地の構築ー


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