厳島合戦考


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陶晴賢が勝てなかったターニングポイントは何か

ー壱ー


厳島合戦における毛利元就と陶晴賢の戦略の差

大野 門山城 −この城を制した者が勝者ー

語句読み方一覧表


城山265.6m(門山城址)

廿日市市大野町にあり、厳島を望む標高二百六十五bの地城山(じょうやま)は絶
好の場所にある。築城年代等は不詳ではあるが、西方の大内方からの侵入に備え、
厳島神社神領防衛のため、門山城は鎌倉時代末期以降であろうといわれている。
門山城の立地は、西の周防から安芸への、また安芸から東の周防への入口であ
ると同時に厳島への東の入口にも当り、軍事上重要と思われる。
永正五年(1508)十二月八日京都において神主藤原興親が病死。この神主家断絶
により、藤原神主家跡目相続を巡り、友田興藤と小方加賀守が東西に分かれて藤
原家が分裂すると、永正十五年(1518)に大内義興が両人の愁訴を退け、神主を置
かず神領を直接支配するに至る。
これには伏線がある。
永正十二年(1515)二月大内義興に従って上洛していた武田元繁が義興から出さ
れた帰国許可に際し、義興は京都の公家飛鳥井氏の娘を自分の養女とした上で
元繁の妻としたが、帰国後まもなく元繁はこの妻を離別し、大内氏に公然と敵対し
て佐西郡に討ち入り、永正十四年(1517)十月二十二日に有田合戦で毛利元就と
戦って敗死した。このことから大内義興は、厳島社神領を支配しつつ、安芸国を支
配することを念頭に、さらに将来の武田氏攻略への布石であった。
神領衆も大内氏による神領直接支配には反発を強めていただけに、神領衆の多く
が興藤の挙兵を支持した。
このような興藤、神領衆の動きは、大内氏側でも事前に察知しており、大永三年
(1523)閏三月ごろ、桜尾城の防備を固める。大永三年四月十一日、ついに友田
興藤は大内氏に叛き、武田光和らの支援を得て大内氏の城番を追放し桜尾城へ
入り友田興藤は自ら神主と称した。 大永四年(1524)五月大内義興、義隆父子が
安芸に出陣して厳島の勝山城 (多宝塔)に本陣をを置き、岩戸山、天神山篠尾に
陣を置き、桜尾城を包囲、警固船で海上を封鎖し桜尾城を孤立させた。しかし防
備強固なため大内氏は攻めあぐね、興藤の兄の子・籐太郎を神主とすることで興
藤、義興両者は和議を結ぶ。
安芸の毛利元就は、はじめ出雲の尼子氏に従属していたが、天文6年(1537)
に尼子家当主・経久が隠居、家督を孫の晴久(詮久)に譲ると、従属先を周防の
大内氏へと替え、その支援を受けて芸備北部に勢力を拡張していった。
これに憤った晴久は天文9年(1540)6月、元就を討つため、元就の居城・吉田
郡山城攻めを決める。
九月四日出雲の尼子晴久が、吉田の郡山城を包囲したとの報に、友田興藤は、
大永三年(1523)に続いて再び大内氏に反旗をひるがえした。
天文十年(1541)三月十八日大内義隆自身も岩国から大野の門山に本陣を移し、
二十三日にはさらに七尾に進んで桜尾城を包囲する作戦にでた。
前回 (大永三年四月〜四年五月)の籠城戦と異なり、今回の情勢は興藤方に不
利と判断した興藤に従属していた神領衆羽仁、野坂、熊野氏らは、興藤を見限り、
四月五日夜半、戦わずして一斉に桜尾城を抜け出した。我一人と気づいたがすで
に遅し、興藤は城に火を放ち切腹をした。
天文十年(1541)四月五日の軍事的成功は義興・義隆二代に渡る安芸経略(四方
の敵地を平定し、天下を治めること) の総決算ともいえるものであった。
それは反大内の武田氏、これに提携した神主家を滅ぼし、新たな脅威となってい
た尼子氏を安芸から撃退することができたからである
その後門山城は、大内氏が安芸国進出時の重要な拠点と位置づけられるように
なる。大内氏、陶晴賢と周防から安芸国に進出する際の拠点として重要であった
ことを知る毛利元就は、陶晴賢との厳島合戦をする前に先手を打って、陶が陣を
構えるであろう門山城を吉川元春に命じて破壊し、自軍に有利になる状況を築い
ていった。
周防から安芸へ進出の際の拠点であったはずで、なぜ晴賢は奪回しなかったのか。
このため陶勢は七百余艘の軍船で岩国・今津から出陣し、厳島に上陸、塔の岡に
陣を構え、毛利元就の宮尾城と対峙していた。
結果論ではあるが、もし陶方が大野・門山城に陣を置き、厳島・対岸の大野との
一番狭い「大野瀬戸」を手中にして厳島合戦に臨んでいたなら、もしかして結果は
違ったものになっていたかもしれないと思わせるほどの要害の城であった。
天文十年(1541)のときには、大内氏はそれまで厳島の勝山城から大野の門山城
に陣を移しており、周防から安芸国への侵入突破口となる役割を担った戦略上重
要な拠点であったことは陶晴賢はもちろん知っていたはずである。
というのは、大永三年(1523)四月十一日、大内氏による神領直接支配に反発した
友田興藤が神主を称したとき、大内氏が反撃を開始し、陶晴賢の父興房が同年八
月五日友田(佐伯町)で興藤方と戦い、大野の門山に本陣を置いたことがある。
晴賢二歳のときである。父興房が天文八年(1539)没したときは十八歳であり、二
男の晴賢が陶家の家督を継いだのが二十歳である。この年二回目の友田興藤の
征伐に大内義隆が岩国から大野の門山に本陣を移したことは、知っているはずで
ある。そのことに気づき早く手を打った知略家の元就と、毛利に対し、圧倒的な兵
力差をもってして戦略に不備 ? があったか、おごりがあったか、若さであったか門
山城を奪回する姿勢を見せなかった、又は無視したその時点で陶晴賢は負けたと
いえるのではないだろうか。
ターニングポイントを見逃した陶晴賢ではあったが、圧倒的な兵力差をもってして
戦術に、門山城・大野瀬戸を抑えていれば、どうなったか・・・・。
歴史は、変わっていたかもしれない。





厳島合戦考
厳島合戦についての概略
毛利元就と陶晴賢の戦略の差   大野 門山城 −この城を制した者が勝者ー
厳島を中心とする制海権の完璧なる掌握のために  −地御前に一大水軍基地の構築ー



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