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トップ 特集1江戸の文化いろいろ吉原と川柳

江戸時代の川柳と吉原』の緒言(ちょげん・しょげん)に江戸文学を解せんとする
ものは、須(すべか)く往時の花街(いろまち)を熟知しなければならないのである。

本書に引用する句は、重に川柳として最も権威ある寶歴(1751~1763)以後天明
年間
1781~1789)に於ける隆盛時代を標準としたとある。

川柳を通して吉原とその界隈及び風俗を知る。

(参考文献)
「江戸時代の川柳と吉原」 佐藤柴弦著 文彰堂 昭和4年刊


2007/3/26より
随時更新


吉原と川柳 その壱  -大門・禿-
吉原と川柳 その弐 -衣紋坂-
吉原と川柳 その参 -船宿-
吉原と川柳 その肆  -猪牙船-
吉原と川柳 その伍  -九郎助稲荷-
吉原と川柳 その陸  -日本堤-
吉原と川柳 その柒  -四ッ手駕-
吉原と川柳 その捌 -御免駕-
吉原と川柳 その玖 -中宿で仮装-
吉原と川柳 その拾 -浅黄裏-
吉原と川柳 その拾壱 -浅黄裏の風俗-
吉原と川柳 その拾弐 -提灯-
吉原と川柳 その拾参 -正燈寺・眞間・眞崎稲荷-
吉原と川柳 その拾肆 -山谷界隈の寺院・大一座-
吉原と川柳 その拾伍 -待乳山・三圍稲荷-
新吉原図  (PDFファイル) 参考Web: 明治27年の吉原図 (2013/1/19)
江戸の遊廓「吉原大門」復活
粋な街作り目指す

四代将軍徳川家綱(いえつな)の時代、明暦三年(1657)幕府の命により移転し、現在の東京都台東区千束四丁目(浅草寺裏)に移転したのが『新吉原』である。今年2007年は350年になる。
その後『吉原遊廓』は昭和三十三年(1958)二月二十八日の閉鎖まで301年間、同じ場所に存在した。吉原は遊女の逃亡を防ぐため四方を掘り(お歯黒どぶ)で囲い唯一の出入り口は
大門(おおもん)だけであった。右手に、廓の出入りを監視するいわゆる四郎兵衛の会所があり、三浦屋四郎左衛門か゜この任に当り、三浦屋の傭人(ようにん) 四郎兵衛を定詰めとしたのが始まりで、代々四郎兵衛の名が世襲となった
日本堤(にほんつづみ)より五十間道への下り口を衣紋坂(えもんざか)と称して、廓(くるわ)へ入り込む多くの嫖客(ひょうかく)・・・(遊里に浮かれ遊ぶ者)は、自然このあたりで衣紋を繕(つくら)うとの意味で斯(か)くは名づけられたものであった。大門口(おおもんぐち)の制札に一、何者に不限馬乗物醫師の外一切可為無用、附鑓長刀門内に堅可為停止者也と掲示され、乗物は一切禁じられてあった。
地元商店会は大門再現を機に粋な街作りを目指すという。高さ4.5メートル、30センチ四方の鉄製の柱に行燈を乗せ、日の入りから日の出まで「よし原大門」の文字を点灯する。2007年11月11日には点灯式が行われる。       (2007年記)

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